文/谷 規佐子
昭和44年(1969年)4月、地元の小学校から奈良教育大学附属中学校に入学した私は、田舎から出てきた少女よろしく何もかもが目新しく、初めての電車通学に心を弾ませながら、毎日毎朝奈良まで通うことが楽しくてしようがなかったと記憶しています。
これは、奈良が大好き!という気持ちからではなく、最寄り駅から奈良駅まではわずか11分でも、奈良は地元と違っていわゆる「街」というか「都会」だったので、そこへ毎日通学できることが嬉しかったのです。(そう、東京に憧れる田舎の少女のような気分でした)
と言いながらも、毎日通うことで奈良へのドキドキわくわくは入学早々で薄れていくのですが(当たり前ですね)、今でも覚えていることやこの機会に思い出したことなど、その中でも特に今回は、奈良倶楽部の仕事の傍ら日々の散策を楽しんでいる東大寺境内と関連づいた思い出を記憶の底から掬いあげて綴ってみます。
ところで、連載第1回目の最後に書いた、母から聞いた物心つく前の微笑ましいエピソード。『父の車で奈良に向かう道中、奈良阪を越えて般若寺あたりで大仏殿が見えた途端に、幼かった私は「ななー」と叫んでいた』そうで、般若寺辺りから見える大仏殿の風景を見て「奈良に来たよー」と、喋り始めた幼い私が「ななー」と言った、その大仏殿は、正面から見たものでなく背後からの大仏殿でした。見る度にきゅんとなるくらい大好きな大仏殿の後ろ姿。あの中にいらっしゃる大仏様に今でもそっと遠くから後ろから遥拝しています。
その後ろ姿を一番近くで拝するところの講堂跡での思い出をまずひとつふたつ。
中学1年の春の写生大会は東大寺境内でした。私は入学早々に気の合った友人と講堂跡に座って大仏殿を描いていました。この時にちょうど描き終えた絵を鹿に食いちぎられて大ショック。でも鹿は紙を食べると初めて知ったのもこの時。
実はそれ以来、鹿にちょっと苦手意識を持ってしまったので、家族旅行のお客様には、「地図をひらひらさせていると鹿が食べに来ますよ。」とか「鹿せんべいがなくなったら、両手をパーにして何も持ってないと示してあげてください。」と、お声かけしています。私と同じように鹿が怖いという思い出を作ってほしくないという思いからです。
この時、ここではもう一つ印象に残ることがありました。一緒に絵を描いていた友人と話が弾んで弾んで、「私達、親友になろう」と誓い合ったのです。中学生になって心の友ができたという喜び。講堂跡に来るといまだに思い出す濃密な出来事は、今も私を幸せな気持ちにしてくれます。
東大寺境内といえば、今は修二会のお松明の第2見学場所のところがバレーボールのコートで、中1の奈良市民体育大会で応援に行ってました。そしてその西側の東大寺職員の駐車場もグランドでした。東大寺境内と隣接する春日野園地にはテニスコートがあって、こちらも奈良市民体育大会の会場でした。中1の私はまだテニス部のレギュラーではなかったので、部活の応援に行くことで出席扱いになってました。(休日に開催される市民体育大会に参加前提で、翌日が代休になっていました。) 当時は鴻池運動公園がまだできていなかったので、奈良公園の中にある運動コートが使われていたのですね。
また春日野園地には、プールや児童遊技場もありました。こちらは後年、長女が1歳前の昭和58年頃に、シーソーに乗せて遊んだりプールで水遊びもした記憶があります。平成元年に奈良に来た時にすでになくなっていたので、おそらく昭和63年開催の「シルクロード博」のために取り壊されたのでしょうね。
余談ですが、子どもたちが乳幼児の頃に海外赴任をしていた我が家は、赴任先のサウジアラビアからヨーロッパへ小旅行に出かけて、その都市に到着したらまず探すのがスーパーと子どもが遊べる公園でした。
我が家の乳幼児にとっては観光スポットよりも公園の方が楽しいようで、きっと大概のお子さんもそうかなと思いますが、観光地奈良に来て、奈良公園のど真ん中に児童遊技場があればどれほどほっとするだろうと想像しています。
また、東大寺ミュージアムのところには、かつて東大寺学園がありました。中1の時に学園祭を覗きに行った楽しい思い出があり、「なんだ芋」という焼き芋の駄洒落ネーミングに笑い、南大門をくぐるときに「なんだ芋」と呪文のように唱えてしまう癖が今も抜けません(知らんけど:笑)。
さて、奈良の街中にもちょっと目を向けてみましょう。下校時にお店に寄るということは当時の中学生ではあまりなかったのですが、家庭科の材料を買いに、餅飯殿商店街のお店を覗いたり(カニヤ、ぜに宗とか)、小西通りのスーパーニチイ、東向商店街の奈良大丸、おしゃれストアももや(今ダイソーのあるところは洋服のお店でした)などに立ち寄ることはたまにありました。
飲食店では、たこ焼きの「西川」、釜めしの「志津香」(当時はスーパーニチイの斜め向かいの2階にありました。その後アルテ館に移転、現在は奈良博の向かい側に。)、一汁一菜の「下下味亭」などが記憶に残っています。「西川」や「志津香」は奈良市内に住んでいる同級生に「この店おいしいよ」と教えてもらって、「下下味亭」は中学の3年間担任の先生だった、今は亡き佐藤優先生のお奨めでした。
佐藤先生のお奨めといえば、あの「日吉館」の存在も中学校の時に知りました。田村キヨノさんを音無美紀子さんが演じたテレビドラマ「あおによし」がこの頃放映されて、熱心に見ていましたが、現役の旅館の女将ながらドラマに取り上げられるというのは相当有名な方だったのですね。こちらも、後年自分が宿の女将となるとは想像もしていず、今から思えば、一度でも泊まっておけばよかったです。
そして中学時代も、担任の先生に「正倉院展は見ておけ」と言われて、3年間見に行ってました。相変わらず内容はさっぱり覚えていなくて、帰りに「下下味亭」に立ち寄ったことが思い出です。
講堂跡の思い出、東大寺境内に運動コートがあった話や南大門の話、奈良の街中のお店と、正倉院展と下下味亭や日吉館のことなど、昔の思い出を懐かしく綴りましたが、今回は一旦ここで筆をおいて、中学時代から奈良に住むまでの話はまだもう少し続きますので、次回にまた。
執筆者紹介
連載「わたしと奈良」
文/谷規佐子
最終更新日:2021/04/15