「奈良出身」がコンプレックスになった時
中学・高校は大阪の男子校に通いました。奈良の自宅から電車に乗って大阪という都会に通う私は、同級生から「(田舎の)奈良から来た」と、からかいの対象になることもしばしばでした。
当時は「地域を大事にしよう」などという考え方はなく、都会がカッコよくて田舎がちょっとバカにされてしまう、そんな時代。古都奈良の文化財が世界遺産になるのももう少し後のことです。相手にとっては軽い冗談のようなものだったかもしれませんが、中学生という難しい年頃でもあり、それまでは楽しい遊び場だったはずの奈良が次第にコンプレックスになっていきました。
肝心の勉強や運動も全くダメ。こんな調子ですから、同級生とはうまくいきませんでした。友達もあまりできなかったです。高校1年生の頃に「もう、学校やめよう」と思って、当時所属していた地歴部の顧問の先生にポロリと話したんです。そしたら、先生から思いがけない言葉が返ってきました。
「今から勉強を頑張れば、私立文系なら早慶に行けるで」と。地理にも歴史にも特に興味があったわけでもなく、どちらかというと面倒だと思っていたクラブの先生のこの言葉がなかったら、どうなっていたか。偏差値はたしか40台くらいで目標まではずいぶん遠かったと思いますが、早慶に行けるなら勉強をしてみようと、先生の言うことを真に受けてスイッチが入りました。
たまたま、奈良から通っている同級生に東京の大学を目指している人が何人かいて、彼らが一緒に勉強をしているというので、仲間に入れてもらいました。志望校の受験科目である2科目だけをひたすら勉強しましたね。1年浪人はしたものの、無事に慶応義塾大学に合格することができました。
父が東京で働いた経験があることもあり、両親は意外に心よく東京に送り出してくれました。当時は「東京に行けばなんとかなる」と漠然と考えていました。自分のコンプレックスや、友達と全然うまくいかないこと、全部「奈良のせいや」と思い込んでいたんです。東京の大学に受かって、奈良から出ることができれば、何かが変わるはずだと。
でも、コンプレックスの原因は自分にあったんですよね。馬鹿にされるのは嫌だからと、生意気な態度をとっていたんです。そりゃ友達もできないですよ。奈良が悪いわけじゃないと、東京に出るまではわからなかったんですよね。
刺激的だった東京での生活
東京はいろんな地域から人が来る場所ですから、奈良から来た私も温かく迎えてもらいました。関西弁を話すと周りが一斉に振り返るので、恥ずかしくて標準語を必死で練習しましたが(笑)。
大学では、美人の先輩の勧誘に負けてカブ研に入りました。株ではなく歌舞伎を研究するサークルです。座学で歌舞伎を研究するのではなく、役者として演じることが目的のサークルでした。年に一度の舞台、松竹から大道具や衣装さんに手伝っていただいて、大教室に実際に舞台を組むんです。なかなか本格的でしょう。それまでは伝統芸能なんて全く興味がなかったのに、これが実際やってみるとむっちゃ楽しい!
初年度は、上方歌舞伎の人気作、『冥途の飛脚』の「封印切」が演目でした。私自身は1年生なので当然役はなかったのですが、先輩から「平井君は奈良だよね」と声をかけられて、上方方言指導をさせていただきました。コンプレックスになっていたことが思わぬところで役に立ってすごく嬉しかったのを覚えています。
カブ研の先輩たちは歌舞伎だけではなく、社会人ミュージカルや学生演劇、英語劇など様々なジャンルの舞台にも参加していました。そのご縁でズルズルと、学生時代はお芝居ばかりやっていました。出演した舞台は20を超えると思います。映画やアート、音楽など芸術全般への関心も深まりました。案の定、1年留年してしまうんですが……。
そうこうしているうちに、就職活動をしなくてはいけない時期に。お芝居で食べていきたいと思っていましたが、稽古をつけてくれていた歌舞伎役者の先生に相談したら「絶対やめといたほうがいい」と。それなら舞台やイベント関係の仕事に就けたらと考えて採用試験を受けてみたものの、まあ見事にどこにも受かりませんでした。いわゆる就職氷河期の最初の年だったんです。
関西のラジオ局の最終面接に落ちて、いよいよ行くところがなくなったというところで、見かねた父から「サービス業は受けたんか」と言われました。それまで飲食店のアルバイトにも嫌な思い出しかなく、サービス業はどちらかというと避けていました。どうせ受からないだろうと思って受けてみたホテルの2次募集で、運良く採用していただきました。
東京のパレスホテルで2年間お世話になりました。接客業務で夜勤もあり、忙しかったですね。同僚に刺激されてソムリエの勉強をしたり、みんなで料理を作ってペアリングの研究をしたりもしました。刺激的で楽しい日々でしたが、体力的にも精神的にほんとうに辛くって「この生活は長くは続けられない」とも感じていました。時間あたりの仕事の密度が濃すぎる東京の働き方は、自分には合っていないなと。
学生時代は、刺激的でオシャレな東京で卒業後も暮らしたいと考えていました。ただ、最初の就職先がサービス業と決まった瞬間に、「自分は家業を継ぐ宿命なんだな」と思ったんです。26歳になる年に、奈良へ帰ることを決意しました。
再び奈良へ。家業を「ええやん」と思った理由
東京から奈良に戻り、すぐに平宗の工場で製造の仕事を始めました。毎朝4時に出勤し、ご飯のラインに火入れをすることから仕事がスタートします。柿の葉ずしはもちろん、巻きずしや鮎ずし、いなりずしもつくりました。配送スタッフが足りない時は、大阪や京都方面への配達も担当しました。繁忙期は特に早朝から深夜まで、ずっとずっと寿司づくり。そんな生活が3年ほど続きました。
平宗での仕事は、父の右腕となっていた工場長に教えてもらいました。その工場長がすごい人で。Macを使ってパンフレットや顧客データベースを作ったり、ドットインパクトプリンタで伝票を出力するシステムを自力で作ったりしてしまうんです。
私も就職してすぐMacを購入していたので、教えてもらいながら見よう見まねでお店のチラシや顧客リストを作りました。趣味で写真をやっていたこともあり、自在に写真加工ができるPhotoshopに出会った時は興奮しましたね。工場の片隅の撮影ルームで商品撮影をしながら、「この仕事、なかなかええかもしれん」と思ったものです。ただの食品製造や接客だけでなく、やろうと思えばなんでもできるんだなと。
製造の仕事に慣れてきたころ、西ノ京店を改装して和食店「たまゆら」がオープンすることになり、店長を任されることになりました。
お店の立ち上げが一段落ついたタイミングで、奈良青年会議所(JC)から「そろそろ、どうですか」とお誘いをいただき、入会することに。32歳でした。父がかつてJC会員でしたので、何度か声をかけていただいていたんです。JCの事業について説明していただいた中に、なら燈花会があったことが入会の決め手でした。
なら燈花会は、私が奈良に帰る数年前からスタートしていました。奈良公園をろうそくの灯りで照らし出す、とても美しいイベントです。同じころ、河瀨直美さんの『萌の朱雀』がカンヌ国際映画祭で日本人初となるカメラ・ドールを受賞して話題になり、「奈良すごいやん、今まで思ってたんと違うやん」と。自分の中にあった奈良のイメージを大きく変えてくれたイベントに関われることになり、これから楽しいことになりそうだとワクワクしましたね。
JC入会をきっかけに、なら燈花会だけではなく、奈良で行われる様々なイベントに関わらせていただけるようになりました。
―後編に続きます。
(インタビュー・構成: 油井やすこ)
合同会社ほうせき箱
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最終更新日:2021/04/06