奈良、旅もくらしも

【連載】奈良さんぽ「第3回風景の向こう側」もりきあや

 いつものお地蔵さんの前に、梅の実が6つ、並んでいる。さわやかな緑と黄と赤が、一つひとつ違うグラデーションをまとって。昨日吹いていた強めの薫風が、塀の向こうの木を揺らしたのだろう。ここを通学路にしている小学生たちが、小さな手で集め、お地蔵さんの前に並べる様子が瞼の裏に映る。その愛らしさに、手を合わせる口元が自然とほころんだ。

 青々と茂る桜の下で、じゃれ合うスズメたち。その後ろの水面では、飛沫をあげて水鳥が2羽着水して、悠々と水を掻いている。道を行く老女が背負ったリュックサックからは、赤い花が顔を出し、歩くたびにぴょこぴょこ揺れている。

 2021年初夏、我がまちの愛しい光景。毎日通る、朝の忙しい道中でプレゼントされた、幸せのかけら。


 梅雨時期の晴天に、とりわけ胸が躍るある日。清々しい風と、おひさまに誘われて、御所市にやってきた。目的地は高天彦神社。もう何度訪れたかわからないほど大好きな場所だ。奈良県民が海を見るとはしゃぐというのは、言わずと知れたあるあるだけれど、さらに奈良盆地民である私は、山にも近づかなくては息が詰まってくるような感覚になる。山川に囲まれた場所に行くと、不思議とその詰まりが流れていくように思う。

 もこもこと緑が濃くなってきた山を見ながら、奈良市から南西へとドライブ。駐車場に着くと、思いのほか、たくさんの車があった。近辺にひと気がないことから思うと、ほとんどが神社脇から金剛山を目指す登山客のものらしい。神社の参道横の紫陽花が、もうそろそろ咲こうかとエネルギーをその内に充満させている。今日は、母と娘に加え、小学1年生になったばかりのトモも一緒に来た。こちらは常時最大限にエネルギーを放出していて、降りた途端に走りたくて仕方がない様子。

 大きな杉が立ち並ぶ参道の入り口で、小さなカエルを見つけてはしゃいでいるかと思えば、他に人がいないのをいいことに参道を行ったり来たりし、そのうちつまずいてこけそうになった。足元のコブに気付いて、「これは、この大きな木の根っこやねん」とお姉ちゃんに教えてもらうと、今度は踏まないようにして社の方へ走っていった。

 神社の前には山からの清流が水量豊かに通っている。初老の女性と、小さな男の子が楽しそうに話をしながら何かを洗っている。「これね、苗が入っていたんですよ。今年の田植えは終わったから、来年のために洗っておかないと。そしたら、孫も『ぼくも手伝う!』っていうものだから」。そう言って嬉しそうに微笑んだ。トモと同じ年頃の男の子は、照れくさそうに下を向き、一所懸命にタワシで土を洗い流していた。


 トモと一緒にお詣りをして、辺りを散歩した。水が張られた田んぼに、植えられたばかりの苗。「ここがあの子の田んぼかな?」と話しながら、私は昔のことを思い出していた。地域の方々が集まる場所で、この高天や伏見あたりの田園風景が好きで、とても美しいと思うと言ったことがあった。その時の、ある人の言葉が今も胸に残っている。

「私たちは、見てもらおうと思って田んぼをやっているわけじゃなく、自分たちの生活としてやっている。それを美しいと言われても、そうですか。という感じで、ピンとこないな」。

 山の斜面に沿って、段々に作られた田んぼ。そこに、行儀よく並んだ苗は、そこに住む人たちの知恵と仕事が成せる風景だ。田んぼだけじゃない。私が見ている風景を分解していくと、過去も含めてどれほどの人たちの時間や思いが積み重なっていることか。そのことを、改めて教えてくれたひとことだった。

 最後にもう一度参道をゆっくり歩いていると、カメラを携えた男性に会った。これから山ですか?と尋ねると、「いや、私らは近くに住んでいて、ちょこちょこ来ていてね。それにしても今日は多いね」と、駐車場を見渡していた。高天彦神社は地域の人たちがいつも大切に思い、守っているところなのだ。トモがもう少し大きくなって体力がついたら、葛城古道を一緒に歩きたい。そのとき、私たちは何を話し、何を感じるだろう。なんでもないこの日のことを、思い出してくれるだろうか。そんなことを思いながら、そっと手をつないだ。


執筆者紹介

もりきあや
奈良市在住。ライター・編集者として活動する中で、地元である奈良の魅力に気づく。新聞の県版でコラムの連載、カルチャーセンターで奈良を案内しながら、さらにどっぷりはまっていく。この連載でさらに奈良が好きになる予感。著書に『おひとり奈良の旅』(光文社知恵の森文庫)。

最終更新日:2021/06/08

TOPへ