奈良、旅もくらしも

奈良は歴史が生き続ける優しい場所―インタビュー:ホテル尾花 中野 聖子さん

「なら燈花会」で仲間と出会い、心身が癒された

 90年代の後半から2000年代前半にかけて、奈良の魅力を見直そうというムーブメントがあちこちで起こりました。98年に「古都奈良の文化財」が世界遺産に登録されたことと、平城遷都1300年祭の開催決定が大きかったと思います。「奈良が注目されている!」という自覚が芽生え、平城遷都1300年祭が開催される2010年に向けて、地域の人たちが自分にできることを模索していたんです。先ほどお話した、なら・ボランティアガイドの会が97年に発足したのもその大きな流れの一つだと言えるでしょう。

 そんな中、1999年にスタートしたのがなら燈花会です。今や奈良の夏の風物詩として欠かせないものになりましたが、その道のりは平坦ではありませんでした。奈良公園一帯にろうそくを灯す…今となっては当たり前の光景ですが、公園内は本来ならば火気厳禁。安全面や文化財保護の観点から、実現までのハードルは想像以上に高かったようです。カップに水を入れ、その中にろうそくを浮かべるというアイデアが生まれ、ようやく今の形が出来上がりました。

 なら燈花会の結成メンバーの中に知人がいて、いろいろと手伝っているうちに私もいつの間にか理事の一員に。うまいこと、巻き込まれてしまったんです(笑)。当初は知人に言われるまま、チラシ配りや告知用のポスターの発送を手伝ったりしていました。実はそのころ、私自身は心身の不調に陥っていて、2003年にはとうとうドクターストップがかかってしまいました。仕事から離れぼんやりと過ごしていたんですが、「やることがないなら、燈花会にきちんと参加してみよう」と思い立ちました。これまでは、ホテルの繁忙期と重なることもあってなかなか全日程に参加することは叶わなかったので、ちょうどいい機会だと思ったんです。結果としてこれが大正解!開催期間の10日間で私はすっかり元気になりました。

 奈良公園の規定により、燈花会で使用するろうそくは毎日決まった時間に設置し、毎日撤収する必要があります。その作業は、すべてボランティアの手によるものなんです。運営側も、忙しい仕事の合間を縫って手弁当で参加している人がほとんど。来場者の方から「これ全部ボランティアでやってくれてるの?すごいですね!」と声をかけてもらったり、会場から感嘆の声が聞こえてきたり。本当にやってよかったなと思えます。自分の体を動かして、多くの人に喜んでもらえるものを作ること。チームのみんなで一つのことをやり遂げること。これは私の心と体にとてもいい影響を与えてくれました。元気になりたい方は、ぜひ一度なら燈花会に参加してみてくださいね。

 なら燈花会の理事になったことをきっかけに、奈良で活動する同世代の「跡取り」仲間に出会えたのも嬉しい収穫でした。それまでは、はるかに年上の先輩方の間で孤軍奮闘しているような気がしていました。同世代の同じ立場の人になかなか出会えず、悩みを共有できなかったんです。燈花会に参加することで、やっと自分の居場所を得られたような気がしました。

 この行事の美しさは、単に灯りを並べるだけではなく、その場所に深い暗闇が存在し、守られていることにあります。伝統ある社寺の境内を包む聖なる暗闇を、老若男女さまざまな人が力を合わせて照らし出す。奈良の精神性を表す素晴らしい行事だと思います。

「なら国際映画祭」で再び映画の世界を生きる

 2010年は、平城遷都1300年という奈良にとって大きな節目の年でした。平城遷都1300年祭を軸に、県内では様々なイベントが行われました。奈良生まれの映画作家・河瀨直美をエグゼグティブディレクターに迎えて行われたなら国際映画祭も、初開催は2010年です。

 なら国際映画祭の構想が公になったのは、開催の3年前。河瀨さんが『殯の森』でカンヌ国際映画祭の審査員特別大賞グランプリを受賞したことを記念し、祝賀イベントが行われた時でした。そのイベントの祝賀スピーチで、河瀨さん自身が「奈良で国際映画祭をやりたい」と熱く語ったんです。私は発起人の1人に名を連ねることになりました。実行委員会のメンバーから「昔は映画館やってたでしょ」の一言で、例によって巻き込まれて(笑)。もちろん、河瀨さんのことは存じ上げていましたし、当時は事務所が近いこともあって、作品の制作の為に宿泊されるスタッフをご案内くださったこともありました。こんな形でまた映画に関わるとは思っていなかったので、不思議な気持ちでしたね。

 さて、大変なのはここからです。河瀨直美というカリスマがいるとはいえ、私たちは国際映画祭についてなんのノウハウもありませんでした。「そもそも、国際映画祭って?」「コンペって何をするの?」というところからスタートし、各所に膨大な資料を添えた申請書を提出するなど、様々な調整に奔走しました。猿沢池から興福寺に至る五十二段の階段をレッドカーペットに見立てようなんて、普通は思いつきません。奈良生まれの私は社寺にある種の畏れのようなものを抱いているので、「そんなんして大丈夫?」とつい思ってしまう。でも、奈良という場所が生んだ才能の塊が、せっかく生まれ故郷の奈良で動いてくれるんです。私たち地元の人間も頑張らないと、もったいないですよね。

 2010年の初開催以降、なら国際映画祭は2年に1度のペースで開催しています。各国の若手作家の作品から、厳正な選考を経た名作を上映するメインコンペティションのほか、アートパフォーマンスや屋外上映会などの関連イベントも行われます。映画を上映するだけではなく、次世代を育てるためのプログラムも大きな柱です。若手の才能ある監督が奈良で映画を撮る「NARAtive project」や、映画監督を講師に招いて学んでもらうワークショップにも取り組んでいます。

 イベント期間中、チケットの枚数を数えたり、会場でもぎりをしたりしていると「人生に映画が帰ってきた!」という感慨がありますね。2017年からは、理事長として映画祭の運営に関わり続けています。河瀨さんの映画に対する情熱や「次世代を育てたい」という想いの強さは、2007年のスピーチから全くブレることはありません。そこが彼女の信頼のおけるところ。最初にアイデアを聞いたときは「途方もないこと言うなあ」と思ったりもするんですが(笑)、いろいろな課題を乗り越えてアイデアを形にしていく時、自分もまた鍛えられているのだと思います。大変なことだらけですが、奈良で映画という文化を守るために働けることに喜びを感じています。なら燈花会と同じく、伝統行事のようにずっと続いてほしいですね。

最終更新日:2021/01/31

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