文・タイトル絵/岡島永昌
荷継ぎはどこで?
江戸時代の大和川舟運(しゅううん)は、大坂側に剣先船(けんさきぶね)が、大和側に魚梁船(やなぶね)が就航し、亀の瀬で荷物を積み替えて大坂・大和間を結んでいた。
このことは、大和川舟運に関わる文章であれば、大抵は説明されることがらである。しかし、よく考えてほしい。実は、それらの説明では、なぜ亀の瀬で積み替えたのか、亀の瀬のどこで、どんなふうに積み替えたのかまでは言及されることがほとんどなく、言及されたとしても評価が一定していない。例えば、昭和12年(1937)発表の論文でありながら、今なお魚梁船研究の最高水準を保つ肥後和男氏の「近世に於ける大和川の舟運―特に魚梁船について―」(『大和王寺文化史論』)では、「峡流が舟運にとって甚危険であり困難であったから」とするが、昭和33年(1958)の『八尾市史』では、「大和川は亀の瀬まで上り、亀の瀬の所には、大岩があって上流に水をたたえていたので、常水があって常時不断の流水には便宜であったが、舟運は一旦ここで積荷を陸上げして、上流の船に積み替えて大和に運送した」としているし、昭和45年(1970)の『川西村史』では、「大坂から剣先船で亀ノ瀬まで運び、いったん荷物を降し、沖仕の手で滝の上まで運びあげ、魚梁船に積みかえた」としている。沖仕(おきし)とは、沖仲仕(おきなかし)や仲仕(なかし)と呼ばれる人たちのことで、船から荷揚げしたり、船に荷下ろししたりする労働者である。
このように、これだけを見ても亀の瀬で船を替えて荷物を積み替える要因が峡流や大岩、滝などとばらついているばかりか、具体的にどの場所で積み替えするのかまでは読み取ることができない。そこで、今回からは、亀の瀬での荷継ぎについて、なぜ、どこで、どのようにしてと具体的に考えていくことにしよう。
亀の瀬を描いた絵図
まずは、川西町吐田(はんだ)の旧家に残される絵図を見る。これは、作成年が記されないものの、天保12年(1841)に大和の百姓らが剣先船の仲間(同業組織)を相手に訴え、それを進めていくにあたって用意された絵図と考えられる。平成16年(2004)『川西町史』史料編には、絵図と同じ旧家に伝来した史料として、天保12年(1841)「大和川筋剣先船運送出入和州国中会合ニ付御領・私領共惣代被差出候当御領分より三人罷出候一件諸事控覚」(剣先船の運送に関する争論で奈良盆地の村々から総代を出すことになり、吐田村の郡山藩領からは3人の総代を出した件の諸事控え)が翻刻されている。この史料では、亀の瀬の5〜6丁(約545〜654m)の間を上等品2枚、中等品8枚の「亀瀬絵図面」(かめのせえずめん)にしたと書き留められていて、ここに紹介するのとまったく同じ絵図が旧家に2枚残っていることも考えると、これがその「亀瀬絵図面」と見て間違いない。要するに、この絵図は天保12年(1841)に描かれた。

川西町吐田の旧家に残される絵図で、天保12年(1841)に描かれたと考えられる。亀の瀬の左岸の国境付近を描いている(写真:柏原市立歴史資料館平成26年度春季企画展図録『亀の瀬の歴史―大和・河内をつなぐ道―』に掲載)。
さて、和紙に彩色をして描かれるこの絵図では、画面左下から右上にかけて大和川が配置され、沿岸には、他の史料から剣先船の荷を扱うことがわかっている3件の荷継問屋(につぎどんや)が見える。荷継問屋とは、荷を継ぐことで口銭(こうせん・手数料)を得る問屋である。画面に示された東西南北の方角から判断して、川の下流から順に、右岸(北岸)に「峠問屋」、左岸(南岸)に「藤井問屋」、右岸に「魚梁荷場」があった。峠問屋と藤井問屋は、所在する村の名前を冠したもので、それぞれ河内国大県郡峠村(大阪府柏原市峠)、大和国葛下郡藤井村(奈良県王寺町藤井)にあった。両問屋では、剣先船から荷揚げした荷物を牛馬で各地へ運んだ。魚梁荷場は峠村内に所在したが、魚梁船に積み替える荷場という意味でそう呼ばれたようである。
また、絵図には、これらの問屋がある川中に「ヱボシ石」「清盛石」「亀岩」「蓮花岩」「雲岩」と亀の瀬にあった奇岩、それに船が赤色で描かれている。この船は、峠問屋、藤井問屋、魚梁荷場に着岸できるように見えるので、剣先船を表現していることになる。平底からはね上げるように描かれるのが船首で、船は川の上流を向いている。平底の上に横たわるように描かれるのは、濡れ荷を防ぐ筵(むしろ)屋根である。3艘見えるのは異時同図法で、まさに岩と岩の間を縫うようにして遡航する状況が1つの画面に落とし込まれていると見るべきだろう。したがって、この絵図からまず言えることは、亀の瀬で荷を積み替えたのは、峡流でも大岩でもないということである。では何か。
亀岩や雲岩が見えることから、この絵図は亀の瀬の左岸の国境付近を描いていることが明らかである。剣先船が藤井問屋の浜(川の港のこと)に入ろうとしている上流側に注目してほしい。そこには「滝口」があり、位置関係からして第5回の連載で天和3年(1683)当時にあったことを見た「銚子の口」である。そして、魚梁荷場はその滝つぼすぐのところに設けられている。魚梁荷場も剣先船の荷を扱った。ということは、剣先船は最奥では滝の限りなく近くまで遡航していたのであり、逆に言えば、滝があったために航行範囲をここまでに限ったと理解できる。片桐且元による亀の瀬の滝開削工事は成功しておらず、滝は江戸時代後期(天保12年・1841)にも存在していた。
滝を越える剣先船
ただし、亀の瀬の滝は、私たちが滝と聞いてイメージするような落差の大きいものではなく、船で越えようと思えば越えられる程度のものだったようである。このことがうかがえる史料を2つ見ておこう。
1つは、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に所蔵される嘉永元年(1848)「堺御奉行中野石見守様大和川筋御巡見留書」(さかいおぶぎょうなかのいわみのかみさまやまとがわすじごじゅんけんとめがき)である。この史料は、堺奉行の中野が大和川を巡見したときの記録で、大和国平群郡立野村(奈良県三郷町)の龍田大社近くに住んで魚梁船経営に携わっていた奥野権之助(ごんのすけ)が、巡見に使用する船を準備したり、魚梁船経営権を所有する安村喜右衛門の屋敷への視察を受け入れたりしたことなどを書き留めている。
この史料によれば、巡見を終えた一行が堺へ戻る際、魚梁船の関係者が船で大和川を下り、築留(つきどめ・大阪府柏原市)まで送り届けた。その道中、中野らは「紫岩」(雲岩のことで、その色合いから紫雲石などとも呼ばれた)のところで船から上がって亀の瀬の滝を検分している。そして、築留に送り届けたあとのことを次のように記録している。関係する部分だけ引用しておく。
夫ゟ先格之通、此方之船ニて築留迄御乗下り、築留より御機嫌克船ゟ御上り被為遊、船方出役之者共かわらニて御暇乞申上候へハ、夫々江御挨拶有之無滞相済、船引登セ罷帰り申候、尤途中ニて夜ニ入、船者青谷渡し場下ニ舟人付ケつなき置、(中略)翌廿日四ツ時、滝引登り無滞御船会所へ着致し候事
<現代語訳>
前回までのとおり、魚梁船関係者が用意した船で築留までご乗船なさって川を下り、築留で無事に船から上られ、同乗していた魚梁船関係者が河原で、ここでお役目を終わらせていただきますと申し上げれば、堺奉行から各人へご挨拶があって、すべて滞りなく終了した。それから船を引き登らせて帰った。ただし、途中で夜になり、船は青谷〔大阪府柏原市〕の渡船場の下で船人を付けて繋ぎ置いておき、翌日の〔嘉永元年4月〕20日午前10時頃、滝を引き登らせて滞りなく船会所に到着した。
引用していない部分になるが、史料によれば中野らが船に乗ったのは亀の瀬の滝より上流にあって、魚梁船の発着拠点に設けられていた船会所で、そこから大和川を下って亀の瀬の滝の上流部でいったん船から上がったのち、滝を検分して滝の下流部で再度船に乗り込んだようである。そして、引用したように、中野ら一行を築留まで無事に送り届けたあと、船は築留から「引登セ」(ひきのぼせ)て帰ったとある。引き登すとは、船を綱で岸から人力で引っ張り上げる曳き船のことを指していると思われる。第3回の連載では、剣先船は帆で遡航することを見たが、ここでは船が通常とは異なり、堺奉行ら要人を乗せて下ったもので、荷物も積んでいない船であったために曳き船されたのかもしれない。あるいは荷物のない空船(からぶね)であれば、重量的に人力で引き上げることができたのだろうか。
さて、それよりもここで注目しておきたいのはその次の一節で、築留から青谷まできたところで夜になったのでそこで夜を明かし、翌日、滝を引き登って船会所まで帰ったとある。つまりは、亀の瀬の滝は、曳き船で越えることができたのである。川を下る際も、要人を乗せているために滝のところでいったん岸に上がってもらっていたようであるが、滝を境に船を変えたわけでなく、船だけを滝の下に下らせて、同じ船で築留まで行っている。
もう1つの史料は、宝永7年(1710)に安村喜右衛門が作成した「乍恐奉願候口上之覚」(おそれながらねがいたてまつりそうろうこうじょうのおぼえ)である。この史料は、第4回の連載でも見たもので、幕府代官の交代を契機に経営権を奪われる格好となっていた安村喜右衛門が、その権利を取り戻すために魚梁船と安村家の関わりをまとめ、幕府に願い出たものである。そのなかに次の箇条がある。
一、三拾四年以前巳極月廿二日、葛下郡藤井村庄屋庄兵衛・年寄利右衛門・同郡王寺村庄左衛門、右之者共大坂天満尼崎又右衛門船を六艘取持、滝ゟ上江差登セ、私手代之者見付押留申候得共、承引不仕指登セ候ニ付、溝口豊前守様江私より右之通言上仕候得共、右之者共被召出急度被仰付、早々船下シ申候御事
<現代語訳>
34年以前〔延宝5年・1677にあたる〕の12月22日、大和国葛下郡藤井村〔奈良県王寺町〕の庄屋役・庄兵衛と年寄役・利右衛門、それに葛下郡王寺村〔奈良県王寺町〕の庄左衛門の3人が、大坂天満の尼崎又右衛門の船〔延宝3年に幕府から認可された新剣先船のこと〕6艘を取り持って、亀の瀬の滝より上流へ差し登らせたのを私〔安村喜右衛門〕の手代の者が見つけて制止したが、納得しないでまだ差し登らせたので、溝口豊前守様〔奈良奉行〕へ私から訴え出たところ、彼らは〔奉行所へ〕召し出されて急度〔きっと・叱責して罪を咎める軽い制裁〕を仰せ付けられ、早々に〔滝より下流に〕船を下した。
引用した箇条に見られるとおり、藤井村と王寺村の者らが剣先船を滝より上流に「差登セ」(さしのぼせ)た。やはり亀の瀬の滝は、船を登らせようと思えば登らせることのできる程度の落差であったのである。何より注意しておくべきは、滝より上流に船がきた場合、安村喜右衛門らが制止し、奉行所へ訴えていることである。滝より上流は安村が経営権を所有する魚梁船だけに航行が認められていたのであり、それに基づいて奉行所も処罰した。
この史料で安村喜右衛門は、滝を差し登らせた事件がこの他に66年以前と32年以前にもあったと記している。船を亀の瀬の滝上に登らせることはそれほど難しいことではなかったようだ。このことを知ったうえではじめに紹介した「亀瀬絵図面」を見直すと、滝口あたりの画面上方、藤井問屋に近い岸辺では雲岩が接しないかたちで描写されているように受け取れる。こうした状況は他の絵図からもうかがうことができて、もしかすると、直接、滝を登らなくても滝の上流側に遡れる別のルートがあったのではないかと考えられる。

Google Earthから亀瀬絵図面に描かれるのとほぼ同じ範囲、同じ方角でスクリーンショットした。亀岩と雲岩は現在も見られるので注記しておいた。絵図と比較することで、滝口や藤井問屋などの場所が想定できる。
以上、見てきたように、大和川舟運が亀の瀬で剣先船と魚梁船で航行範囲を分けていたのは、直接的には滝があったことに起因している。ただし、その滝は引き登らせることができる程度のものであって、あるいは滝を経由しなくても上流に遡れるルートがあったと考えられる。つまり、航行範囲を分けた理由は滝のようであり滝でなかった。ややこしいが、これが大和川舟運のミソでもある。
今回は、剣先船が遡航する最奥部にあたる亀の瀬の左岸の国境付近を見た。剣先船が上ってきて着岸する場所までは確認したが、今度、魚梁船にはどこで荷を積むのか。実は亀の瀬の絵図に描かれる「魚梁帳場」がそれにあたるのだが、そろそろ文字数が尽きるので続きは次回(1年後⁉︎)に。
筆者紹介
おかじまえいしょう/奈良県王寺町生まれ。天理大学文学部歴史文化学科卒業。大阪市立大学大学院文学研究科日本史学専攻前期博士課程修了。現在、王寺町地域整備部地域交流課主幹兼文化資源活用係係長・文化財学芸員。著書に『思いつくまま、歴史の旅―王寺まち歩き100話―』ほか。
最終更新日:2024/07/04