2人の子どもたちが、小学校、中学校と新しい環境に飛び込んでいく中、私たち家族は、数ヶ月実家で暮らすことになった。しょっちゅう遊びに来ていて、家だって近いのだけれど、暮らすとなるとまた違う感覚だ。IHの調理器に慣れた生活だったから、ガス火で食事を調理するだけなのに、ワクワクしてしまうほど。できた料理を盛る器を懐かしい食器棚から選んでいると、あの日の家族の風景がよみがえってくる。大皿いっぱいに揚げられた天ぷらや、寸胴鍋たぷたぷのカレー、やっと抱えられるほどの銅鍋で炊かれたおでん…。毎日を懸命に、そして滞りなく回していた母を、あらためて尊敬する。
同時に思い出されるのは、亡き父が、幼い私に話したこと、向けてくれた眼差し、やんちゃな子どものような笑顔。忘れていたわけではない。しまってある引き出しを、開けずに過ごしていただけだ。思い出し始めれば、とめどなく溢れ出す。
というような我が家の事情と、外出を控えたい時世も相まって、私の興味は内に、内にと向いている近頃。ある晴れた日、母を「私が小さな頃に一緒に歩いた散歩道を歩かない?」と誘った。とっくにおばあちゃんの背丈を追い越した娘も、「私も行く!」と言ってうれしそう。
春過ぎて、強くなってきた日差し。帽子を被った母と、部屋着のまま飛び出した娘が前を行く。このユスラウメはいつ食べ頃なのだとか、タケノコが育ちすぎてもう食べられないだとか、食いしん坊たちの散歩が始まった。
えっちらおっちらと歩いて着いたのは、「史跡 瓢箪山古墳」。あらためて案内板を読んでみると、「瓢箪山古墳は、前方部を南にむける前方後円墳で、墳丘の全長九六メートル、後円部径六〇メートル、同高さ一〇メートル、前方部幅四五メートル、同高さ七メートルである」。幼い頃は、ここでよく遊ばせてもらった。マツボックリやドングリを拾い、段ボールをお尻の下に敷いて、なだらかな斜面で草滑りをした。四世紀末から五世紀初期、つまり1400年以上前に築造された昔の人のお墓だなんてことを、まったく知る由もなく。いつもの景色、いつもの道、そこに歴史が横たわっているのが、私の故郷だ。
思い出話をしていると、少し前を歩いていたご近所のおじさんが携帯を空にかざしていた。「何を撮っているんですか」と聞くと、「ウグイスがじょうずに鳴いているから、録音しているの」と。確かに、いろいろなイントネーションで、まるで話しかけているようにコロコロと鳴いている。私も真似してレコーディング。なんと麗しい春の声。「この桜が、白くてきれいだったね」と娘が言う。つい先頃、ご近所さんの速報を得て、おばあちゃんと見に来たそうだ。もうすっかり花は終わり、葉の緑が濃くなりつつある。サクラもウグイスも、草陰のキュウリグサも、季節を忘れずにいてくれることが有り難い。
途中、大きなシマヘビに驚かれながら、畑と古墳の道をゆっくり進む。八幡神社を過ぎ、日葉酢媛命陵(佐紀陵山古墳)にさしかかると、「あなたが小さいとき、この木に登っていたよ」と母。それを聞いて娘が「あぁ、この木は登りたくなる気持ちがわかる」と。確かに、腰ほどの高さから幹が幾つにも分かれていて、足をかけたくなる形。
今のように携帯電話のない時代だ。まして、平日に幼い私と2人で歩いていた散歩道なのだから、母が父の重たいカメラを持ち歩くわけもない。すべては思い出の中、心の中に映るだけ。浮かんでは霞むその光景を、私自身、本当に覚えているといえるのかはわからない。それなのに、どういうわけか温もりが込み上げてくる。
「このあたりは、なーんも変わらん。家は古くなっているけれど町並みは同じだし、人がほとんど歩いていないところまでそのまんま(笑)。少し周りの木が大きくなって、お堀のカメが増えたくらいかも」。そんな母の言葉に、私はどこかほっとしていた。進化したり、変化したり。それが当たり前の生活の狭間に、記憶を辿るには充分なくらいに、ずっと在り続けてくれている。昔の人が、こんなに大きなお墓を造ってくれたおかげでもあるし、それを特別に避けて、守ってきた人たちのおかげだ。
あなたにもあるだろうか。いつも通りのあの道、瞼の裏に残るひとときが。あなたの物語を聞きながら、その風景の中を歩いてみたい。さて次は、どこを散歩しようかな。
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奈良市山陵町に位置する陵墓。前の后、狭穂姫命(狭穂毘売)の遺志を受けて垂仁天皇の皇后となったのが、日葉酢媛命である。『古事記』には、狭穂毘売は反逆を企てる兄・狭穂毘古と夫・垂仁天皇の間で揺れ動いた末に、火の中で皇子を産んだ説話が収められる。また、日葉酢媛が亡くなった際には、野見宿禰からの進言により、それまで人が殉死して埋められていたところを、初めて人や馬に見立てた埴輪を埋納したと『日本書紀』は伝えている。
執筆者紹介
もりきあや
奈良市在住。ライター・編集者として活動する中で、地元である奈良の魅力に気づく。新聞の県版でコラムの連載、カルチャーセンターで奈良を案内しながら、さらにどっぷりはまっていく。この連載でさらに奈良が好きになる予感。著書に『おひとり奈良の旅』(光文社知恵の森文庫)。
最終更新日:2021/05/01