奈良、旅もくらしも

【連載】奈良さんぽ「第6回彼岸花のころに」もりきあや

平日の朝は、小学生の息子をバス停に送って行くのが私の日課だ。少々準備が遅くなった火曜日、私たちは自転車で向かっていた。その日は、ハッとするほど日差しがやわらかく感じた。頬を撫でる風の温度も涼やかで心地よい。露ができているのだろう、道端の草花が陽光を受けてはキラキラと反射している。

「今日は天気がいいね。秋が来たねぇ」。

息子と話しながら走っていると、目線の先に、鮮やかな赤が見えた。いつもの民家の庭先に咲いた彼岸花だった。そうか、そんな季節だった。花々の報せの正確さに感心してしまう。同時に、赤が綺麗な時間の短さを思い出し、家に戻るとすぐ母に連絡を入れた。

「今日、彼岸花を見に行かない?」と。

母と一緒に向かったのは、葛城だ。自分でも、どれだけここが好きなのかと思ってしまうほど、何かにつけてこちらに足が向いてしまう。同じ奈良と言っても、私が住む盆地と、金剛葛城山の麓の里山とでは、空気はもちろん、重力さえ違って感じるときがある。ちょっと大げさかな? でも、ちょっと心が重たくなってきたと感じたとき、山に行くと軽くなる。隆起して形作られてきた大地のパワーなのかもしれない。

山麓線を走っていると、九品寺のあたりには人だかりができていた。やはり皆さん、時期をよくご存知だ。全員がカメラマンといった状況を遠目に見ながら、通り過ぎて一言主神社まで。こちらもたくさんの方がいらっしゃったけれど、なんとか神社の駐車場に停めることができたので、母と参拝させていただいた。

階段を降りながら、田んぼの方を見ると、もちろんここでもたくさんのカメラマンが花をモデルに撮影中だ……ふと目が止まる。銀髪の長身で、ややしかめ面の男性が、カメラを構えている。目線の先には、ゆっくりと日傘をたたみながらフフフと笑う小柄な女性がいた。男性は照れくさそうに数回シャッターを押して、すぐに撮影は終了。並んで歩く二人は、何を話すでもないのにそれぞれ微笑んでいる。深く、柔らかく刻まれた目尻のシワが、二人で歩んだ時間の豊かさを物語っていた。

「ああ、いいなぁ」。

と幸せな気持ちになった。そして気がつくと、十数年前に亡くなった父を思い出していた。隣を歩く母と父にも、こんな穏やかな時間がやってくるはずだったのかなと。私たちを一生懸命大きくしてくれて、やっとひと段落、という頃に逝ってしまった。あ、でも父は寂しがり屋だったから、もしかしたら、今も母について一緒に来ているかもしれないけれど。

私もだんだんと父の歳に近づいている。まだ健康ではあるけれど、若い頃にはなかった不調は時々感じるようになった。子どもたちの弾けるようなエネルギーに、ついていけないと感じるときだって。そうして歳を重ねてきて思うのは、父が私と過ごしてくれた時間は、父の人生、命の一部だったのだなぁということだ。父だけではない。誰かが私にかかわってくれた時間は、その誰かの限りある人生の一部なのだと思う。それは私自身だって同じこと。何に時間を使い、誰と過ごし、どう命を燃やして生きるのかは、もっと真剣に考えていい。彼岸という時期だからかな、思いは深く深くめぐっていく。

帰り道は、もう一つ麓の道から帰ることにした。先ほどは、段々の田んぼを上から見下ろしていたけれど、今度は山裾に沿って見上げる。丁寧に営まれている田んぼを、湧き立つように赤い曼珠沙華が縁取っている。頭を垂れる稲穂たちが、秋風の通り道をつくっていた。


執筆者紹介

もりきあや
奈良市在住。ライター・編集者として活動する中で、地元である奈良の魅力に気づく。新聞の県版でコラムの連載、カルチャーセンターで奈良を案内しながら、さらにどっぷりはまっていく。この連載でさらに奈良が好きになる予感。著書に『おひとり奈良の旅』(光文社知恵の森文庫)。

最終更新日:2021/10/22

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