文・タイトル絵/青木海青子
東吉野村は奈良県の東に位置し、隣県の三重にほど近い山村です。川の水が澄んでいて、静かで美しいところです。奈良県内に住む方からも、「東吉野って奈良ですか?」と訪ねられることもしばしばですが、「良いところですよー奈良ですよー(よーょー……)」とやまびこが返ってくるぐらい言いたい。
私たちは2016年よりこの山村で人文系私設図書館Lucha Libroを開館し、暮らしてきました。私たちが流れ着いたのは東吉野村の鷲家という地区で、伊勢街道が通っており、古くは紀州藩の飛び地でした。(他の地区は天領だったようです。)(※1)伊勢参りを支えたであろう馬たちを弔う馬頭観音のお社や、伊勢街道の道標があります。山の暮らしの中でそれまで知らなかった習慣や行事、言葉、感覚に出会い、ワクワクして誰かに話したくなりました。そんな訳でエッセイとして、暮らしの中で見聞きしたものを留めたり、調べてみたり出来たらと考えたのでした。
(※1)『東吉野の旧街道』(東吉野村教育委員会, 1997) p.3参照
私は山村に暮らしながら、未だに運転免許というものを持っていません。そんな訳で、村に住んでもうすぐ5年経つ今でも、奈良交通バスや、村のコミュニティバスを駆使しています。
村のおばあちゃんは私と同じで免許を持っていない人が多いので、よくバスで一緒になります。バスを乗り継ぎ、一日かけて隣町へ出かけるなんてこともしばしば。もしかしたら私は、移動という側面では、村のおばあちゃんと似通った生活スタイルなのかもしれません。鷲家からだと、平日なら奈良交通バスに乗れば、直通で最寄り(バスで30分だけど、最寄り)の近鉄榛原駅にたどり着けます。しかし土日祝日となると、そうは行きません。というのも、休日は奈良交通バスが、東吉野村に来ないのです。榛原駅からのバスは、お隣の宇陀市のバス停・菟田野までで折り返します。
そこで、コミュニティバスです。村のコミュニティバスは、バスといってもワゴン車やタクシーを利用した村内の移動手段です。菟田野から村への足となってくれる他、路線バスが走らない村内の移動にも便利です。このコミュニティバスに乗って、村の入口である佐倉峠を走っている時、運転手さんからこんなお話を聞きました。
「昔はここの峠の道も狭くって、舗装も今みたいなんやないから、バスが通るのも大変やったよ。それから、昔の車ってハンドルが重たいからなぁ。女の人で運転する人は滅多におらんかったわ。」(※2)
(※2)しかしながら、近所に住んでいた友人のお祖母様は、ピンクの女優帽を被り、颯爽とハンドルを握っていたと言います。かっこいい。
これを伺って、運転手さんより恐らく少し歳上の、うちの大家さんに聞いたお話を思い出しました。当館の機関誌『ルッチャ』を開いてみます。この当時はまだ「東吉野村」ではなく、高見村、小川村、四郷村の三村で、鷲家は最初高見村、途中から小川村に編入したそうです。
高校は大宇陀高校なんですけど、家から十五kmくらい。これは自転車で行かんといけませんね。女性も自転車で通ってる人が多かったですよ。…(中略)…あの当時、高校の二年くらいまでトラックは全部木炭車だったんです。木炭車っていうのは坂になると遅いんですよ、ガガガって。僕ら高校に通ってた時、トラック見つけたら必ず待ってて、後ろに食らいついてね。危ないって怒られはしましたけどね。
[『ルッチャ』創刊號(人文系私設図書館Lucha Libro, 2018)p.25より]
先日、街に住む人と話していて、近いという意味合いで「車で30分も走れば、お茶しに行けるんですよ」と言ったら「遠い!」とびっくりされましたが、それでも昔の比ではありません。大宇陀高校まで自転車なんて、レースか何かかと思ってしまうぐらいです。そんなことを考えながら『東吉野見聞録』という本を紐解くと、村にはじめて自転車が走ったのは、明治末から大正のはじめ頃だったということです。
また同書によると、先のお話に出てきたバスやトラックの前身といえる貨物自動車、乗合自動車が村を走り出したのは、大正期だったようです。やはり佐倉峠を上るのは大変だったようで、著者の山添さんはこんな風に綴っていました。
…しかし力が弱くて、急峻な坂はのぼりきれず、佐倉峠で客は車を降り、あと押しをしたという事は、うそのような本当の話です。
[山添満昌『東吉野見聞録』(東吉野村教育委員会, 1999) p.75より]
山添さんによると、乗合自動車が走っていた大正十年頃でも、まだ腰弁(※3)で一日かけて桜井に出るのが普通だったそうです。そんな状況だったので、峠に近世期から続くお茶屋さんが営業していたとか。村から出発してひだる地蔵さんに至る手前に「日の森茶屋」、峠を上ったところのは「上の茶店」といったのだそう。(※4)
(※3)「腰弁当」の略。「お弁当持って」の意です。
(※4)『東吉野の旧街道』(東吉野村教育委員会, 1997)p.151-154参照
私がちょうどこの文章を書いている12月には、佐倉峠にあるひだる地蔵さんがお正月に向けて、南天や松で飾られています。その姿は今も峠を見守ると同時に、腰弁や木炭車、自転車でここを上った人たちの姿を、こっそり耳打ちしてくれているようでもあります。
執筆者紹介
連載「山とレファレンスブック」
文/青木海青子
最終更新日:2021/02/13
編集部から
青木海青子さんは、人文系私設図書館Lucha Libro(ルチャリブロ)の司書です。同館のキュレーターであり夫である青木真兵さんとともに、同館を運営しています。今回の連載は、海青子さん曰く「山で暮らす中で聞いた話に加えて、それを手がかりに本を紐解いてみる」もの。同館が東吉野村という山間地にあること、「レファレンス」という図書館の重要な役割。おふたりの著作とともにご覧ください。「レファレンスブック」というと通常は辞典や図鑑等を指しますが、ここでは広く参考資料というニュアンスで使っています。