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鎌倉幕府と雅楽

 2022年に放映されたNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」によって鎌倉時代が改めて見直されたと思います。ドラマでは承久の乱後、後鳥羽上皇が隠岐に配流されたところで終わりましたが、その後天皇の人事権は鎌倉幕府が握ることになります。
しかし、天皇制は廃されることなく続き、武家政権は朝廷の官位制度と儀礼の体系をそのまま踏襲します。
 文化面においては鎌倉武士の間では王朝文化への憧憬が強く、武家文化は公家文化の模倣から始まります。この稿では、文化の中でも奈良と縁の深い雅楽と鎌倉幕府について書いてみたいと思います。

 武家文化以前の雅楽は、平安時代の任明天皇(在位833~850 )のころに左方唐楽、右方高麗楽という左右両部制に分けるかたちで体系化され、天暦(948)年には大内に楽所が設けられました。平安時代以降、貴族や上流社会で雅楽をたしなむことが流行となり、さらには雅楽を家の芸とする家柄が生まれます。この家柄を「楽家(がっけ)」と言います。

 鎌倉における雅楽については、鎌倉時代の歴史書『吾妻鑑』では寿永3(1184)年正月1日条に鎌倉・鶴岡八幡宮において御神楽が行われたのを初見とし、ほとんどの神楽や舞楽は同社で行われています。鶴岡八幡宮の御神楽は、興安9年(1286)鎌倉将軍家(惟康親王)寄進状に「鶴岡八幡宮は石清水宗祀を模したものである」と書かれているとおり、京都・石清水八幡宮で毎年二月と十一月の二季に行われていた御神楽に倣ったものです。舞楽も石清水八幡宮に倣って三月の法会と八月の放生会で執り行われ、王朝文化を摂取し、継受するためのものでした。

 『鶴岡社務記録』によると、鶴岡社に楽所(がくしょ)が創設されたのは建久2(1191)年となっています。この時、京より楽人(がくじん)の多好方(おおのよしかた)、その子の好節(よしとき)などが京より招請されます。
 二人は一旦帰洛しますが、源頼朝が鶴岡八幡宮の神事のために、御教書(みぎょうしょ。将軍の命令を奉じた伝達文書のこと)を多好方に下し、本来譜代の者でなければ伝授されない神楽の秘曲を大江久家以下13人の侍に伝授させしめ鎌倉へ帰参させて、鶴岡社の楽所が整えられていきました。当初の楽人は祭りの都度、京都宮中の大内楽所より呼ばれていましたが、徐々に鶴岡八幡宮の楽所の楽人として鎌倉に在住する人も出てきます。
 舞も当初は伊豆・筥根(はこね)の童によって舞われていましたが、建久4(1193)年2月に鶴岡社で行われた法会からは、鶴岡の別当供僧の門弟あるいは御家人の子息から選ばれるようになりました。同年には舞殿も新造されます。

 『吾妻鑑』で最後に記事が見えるのは文永2(1265)年3月3日御所において行われた法要で、曲目は「左―三台塩、甘州、太平楽、散手、陵王、右―長保楽、林歌、狛、貴徳、納蘇利とあり、いずれも童舞だったようです。
 『鶴岡社務記録』で左一者として、狛盛光(こまのもりみつ)。右一者として多影節の名が上げられ、他には中原光氏・光上。大神高賢。狛近直・近康・季近の名前が見えています。
 当時、楽人は京都、奈良、天王寺の3か所に集団を作り、それぞれ京都方、南都方、天王寺方と称し、三方楽所と呼ばれていました。
 右一者に名が上がっている多影節は最初に頼朝によって京より招聘され、その後鎌倉に住み着いた楽家多氏の好方・好節の一族の者で、京都方です。左一者の狛盛光の属する狛氏、大神氏は南都方に属していました。

 ここで、南都方、つまり奈良ゆかりである狛氏について紹介しましょう。
 狛氏は平安時代の冷泉天皇(967~969)の時、第5代衆行が勅命によって興福寺の雑掌(荘園を管理する職)となりました。第9代光高(995~1048)の代に山城の里に住んで、舞楽・伎楽を伝え、一条天皇のときに狛の姓を賜ったと伝わります。奈良南都楽所はこの狛氏を中心として長保(999~1003)の頃にまとめられたものです。
 前述の法要で名が見える中原光氏・光上は親子です。光氏は「楽所系図」によると3大楽書のひとつ『教訓抄』を著した狛近真の養子となっています。
 鎌倉時代の前は、平重衡による南都炎上で東大寺・興福寺の殆どが灰燼に帰し、京にあっても打ち続く騒乱によって、雅楽が衰退を余儀なくされた時代です。嫡家相伝の危機に瀕した時、当時楽所の「一の者」として狛氏一統の秘曲を一身に集めていた人物が狛近真で、天福元年(1233)57歳の時、子孫のために雅楽書の原典として『教訓抄』を書き綴りました。

 奈良県庁東の交差点の東北の角に祀られ「ひょうしの神」とあがめられる「拍子神社」はこの近真を祀った神社で、今、音楽の神として多くの音楽関係者の崇敬を集めています。

 拍子神社の東、江戸時代まで南都楽所が置かれていた氷室神社の境内には、狛氏の祖であり楽祖と讃えられる第9代光高を祀る「舞光社」という祠があり、境内には雅楽にゆかりの日袋を持つ灯篭があり、楽太鼓の彫り物、その横側には舞人が描かれています。

以上のように、鎌倉では京に倣って雅楽法要が盛んにおこなわれ、鶴岡八幡宮に雅楽の楽所が頼朝によって設置され、奈良ゆかりの楽人が、その創設に関わっていました。
ただ残念ながら、その後鎌倉の市井の人々までには、雅楽は普及せず終わり、こうした奈良との関わりを知る人も、ほとんどありません。

(文・大槻旭彦)

参考文献
『神奈川県立博物館研究報告』(人文科学)(2020年12月(第47号抜刷)
「初期鎌倉幕府の音楽と京都社会 ―楽人招請型の音楽受容とその基盤― 」
渡邊浩貴
 「鎌倉幕府と雅楽 -鶴岡八幡宮を中心にー」 新潟大学 萩美津夫
『雅楽界 第54号』小野雅楽会発行

最終更新日:2023/02/17

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