奈良、旅もくらしも

【連載】わたしと奈良「第1回 幼き日の思い出」谷規佐子

文/谷 規佐子

初めまして!
奈良公園・正倉院の北側で、「奈良倶楽部」という小さなホテルを営んでいる谷 規佐子と申します。平成元年に32歳で開業した奈良倶楽部はこの春に32周年を迎え、人生のちょうど半分を奈良で暮らしてきたことになります。

今回の連載の第1〜2回は、自己紹介も兼ねた奈良倶楽部を始める前の32年間を綴ることにして、その中でも特に「奈良」と関連づいた思い出を記憶の底から掬い上げ、昭和30年代から昭和の終わりまでの「私の見た奈良」を書いていこうと思います。個人的な思い出話が中心になって恐縮ですが、半世紀から四半世紀前の奈良を旅する気持ちで楽しんでいただければ嬉しいです。


まず始めに、私の生まれ育ったところは奈良県内ではなく、奈良市と隣接する京都府木津川市山城町というところ。奈良まではJRを使って11分という近さでしたが、奈良は普段の生活圏ではなく「ハレ」の場所というイメージでした。

物心ついた時から「ハレ」の日の奈良へ、よく連れて行ってもらいました。奈良公園やドリームランドに遊びに連れてもらったり、二月堂修二会の「達陀帽」(※1)を被らせてもらった記憶もあります。

[編集部注]
※1 東大寺修二会の行中に達陀(だったん)を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)が被った帽子を子どもの頭に載せて健康を願う「達陀帽いただかせ」という行事が毎年3月15日に行われています。

何より強烈な印象として残っているのが、大きな賑やかなパレード(行列)で、その中で見た裸のお腹に顔が描かれた人達が練り歩いていた様子が忘れられません。

奈良県立図書情報館公式サイト内「奈良の今昔写真WEB」 より転載

賑やかな行列だったので、それはおん祭のお渡り式だと思っていましたが、奈良に住んでお渡り式を何度も見学して、裸行列の場面がないことに気が付いて、そしてそもそも神聖な神事にそんな場面があるはずがないと気付いて、では一体、あれは何だったのだろうという疑問が長く頭の中に残っていたのです。

その後2010年に平城遷都1300年祭が賑やかに開催された時に、その50年前には1250年祭が行われたと知り、4歳の自分が見学したのはそのパレードだったと、やっと頭の中の霧が晴れたように理解したのでした。(5歳で妹ができた私は、パレード見学の時に妹がいなかったので、4歳の時ではと推測しています。)

このパレードを見学した場所は、近鉄奈良駅の郵便ポストのある辺り、まだ近鉄奈良駅が地上にあって、終電から始発までの時間は蛇腹のシャッターが閉まっていたと記憶しています。

奈良県立図書情報館公式サイト内「奈良の今昔写真WEB」 より転載

また、奈良といえば「ハレ」の場だけでなく、病弱だった幼少期は奈良市民病院(当時は奈良国立病院)によく通院して、帰りに東向商店街でお土産を買ってもらったりご飯を食べたことも覚えています。その時に、商店街にある親愛幼稚園の前で傷痍軍人の人がアコーディオンを演奏していた記憶もあります。

今住んでいる「きたまち(※2)」エリアに関連してなら、病弱だった幼少期は転害門近くの鍼灸院にもよく連れて行かれて、転害門を見た記憶もあります。後年、まさか自分がその近くに住んで「きたまち」「きたまち」と言っているなど思いもしませんでしたが。

[編集部注]
※2 近鉄奈良駅北側、そして東大寺の西側広がるエリアの通称。

さて、小学校に上がると、親に連れられて奈良に遊びに行くこともなくなり(奈良には行っていたと思うのですが、記憶に残っていず)、その後、私の記憶に奈良が出てくるのは奈良国立博物館での「正倉院展」(※3)になります。小学校5年生当時の担任の先生に「正倉院展は見ておくべき」と言われて、小5、小6と2年続いて見に行きました。本館(今の奈良国立博物館なら仏像館)での展示でしたが、なんだかわからないけれど観たという事実だけを担任に報告していたように思います。

ちょうどその頃から友達同士で奈良まで出かけるようになって、冬はスケートリンクへ、6年生になったら模擬試験を受けに一人で奈良まで出かけていました。スケートリンクはJR奈良駅から三条通りを西へ歩いて、三条栄町の三叉路の一角にありました。また模擬試験会場はJR奈良駅から南へ歩いた「奈良理容美容専門学校」であり、今もそのあたりを通るたびにその頃を懐かしく思い出してしまいます。

模擬試験が終わって一人で東向商店街まで歩いて、食事をして帰ったこともあり、当時のお店は「宮本食堂」という名前だったかなと思い出しています。それにしても、小学生が一人でお店によく入ったなと自分ながら感心していますが、後日、母と当時の思い出を語り合っていた時に、幼少期の病院帰りに東向商店街でお昼を食べた食堂が宮本食堂だと知って納得しておりました。宮本食堂はお土産物店の三楽洞があったところにあり、10年ほど前にやめられたそうです。奈良に住んでからでも、一度伺えばよかったと少々残念に思っています。

母から聞いた幼少期の思い出話の中に、一つ微笑ましい出来事がありました。病院通いをしていたことはよく覚えていましたが、父の車で病院に向かう道中、奈良阪を越えて般若寺あたりで大仏殿が見えてきた途端に2~3歳の私は「ななー」と叫んでいたというエピソード。(「ななー」は「なら」のことです)。

般若寺あたりから大仏殿が見えてくる風景が、私の一番好きな奈良の風景なのですが、それが小さい時から心の中に刻まれていた風景だったとわかってとても嬉しかったです。

実家では、初詣は大神神社へ参拝でした。中学受験前には学問の神様・久延彦神社でご祈祷を受け、見事志望校に合格。奈良に通学する中学生時代が始まります。さぁ、思春期まっただ中の昭和40年代なかば。「私の見た奈良」は次号に続きます。

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執筆者紹介

連載「わたしと奈良」
文/谷規佐子


編集部から

執筆者の谷規佐子さんは、正倉院近くで客室8室の宿「小さなホテル奈良倶楽部」を営んでおられます。谷さんが長年綴るブログ「奈良倶楽部通信」は、やさしい視点とこまやかな情報で、さまざまな奈良の魅力が紹介されています。

最終更新日:2021/02/16

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