文/総本山金峯山寺 寺史研究室長兼文化財主任 池田淳
南北朝時代の昔から、金峯山寺の北側の二王門(におうもん)でお寺を守護したのが、重要文化財の金剛力士立像です。文化財に指定されている御像としては、東大寺南大門の金剛力士立像に次ぐ5mを越える巨像で、文化財としての指定名称は金剛力士立像ですが、吉野山では金峯山寺の仁王さんとして親しまれていますので、今回は仁王さんと書かせて頂くことにします。
仁王さんは、令和元年度から奈良国立博物館内の公益財団法人美術院で保存修理がおこなわれ、これが完了した現在(※編集部注 当記事執筆時の2021年)、奈良国立博物館のなら仏像館に展示され、博物館の展示室からではありますが、金峯山寺だけではなく、あまたの人々を守護しています。
今回は、南北朝時代に造立された仁王さんが、はじめて金峯山寺をお出ましになって、奈良国立博物館に展示されるまでの長い長い旅路をお話します。
不思議な門
まず、金峯山寺の国宝二王門は不思議な門です。この門に安置される金剛力士立像と、金峯山寺の御本尊の金剛蔵王権現とは、背中合わせになっています。普通、門を守る金剛力士像は、その寺の御本尊とは同じ方向を向いていますが、金峯山寺の場合、門自体も本堂である蔵王堂と背中合わせになっています。これは何故なのでしょう?
大峯奥駈道を最極修行の場とする修験道では、熊野から吉野山への修行と、吉野山から熊野への修行があり、前者を順峯(じゅんぶ)、後者を逆峯(ぎゃくぶ)といいます。吉野山から修行をはじめる人々を迎えるのが二王門でした。熊野から修行をはじめた人々のためにも門が設けられていました。それが蔵王堂の南側にあった二天門でした。ただ、二天門は、正平(しょうへい)3年(1348)高師直(こうのもろなお)が吉野山に襲来した時の兵火により焼失して以来再建されていません。
元々北と南に二つの門があって、その一つが失われたため、本堂と山門が背中合わせになる不思議な門だけが残されたのです。現在、二王門は、国宝に指定されていますが、令和10年度までの予定で保存修理が行なわれていて、この門を通っての参拝はできなくなっています。
仁王さんを造立した人々
仁王さんの像内には、仁王さんを作った経緯が墨書で残されています。この墨書によって仁王さんが作られた時代と、これに関わった人々を知ることができます。
ところで、仁王さんは2体あり、二王門の西に安置されるのが口を開かれた阿形像、東が口を閉じられた吽形像といいます。「阿吽」という言葉をお聞きになったことがあると思います。「阿」は物事の根源を意味し、「吽」は一切の物が帰着する智徳を意味しています。阿吽が揃っているからこそ、安全に金峯山寺を守護して来られたのです。
阿形像は、延元(えんげん)3年(1338)に当時の金峯山寺の僧侶たちによって「御衣木加持(みそぎかじ)」がおこなわれ、造立が始まりました。「御衣木加持」は、この御像に使用する材木を揃えて加持祈祷することで、これをもって阿形像が作り始められたと考えてよいでしょう。
御像を造った仏師は、大仏師康成、小仏師康舜と良圓・幸禅・康円の三仏師、そして大工清原國弘でした。康成は、従前は「こうせい」と読まれてきましたが、近年では「こうじょう」と読むべきであると考えられています。康成は、運慶の系譜を引き継ぐ慶派(けいは)に属する当時知られた南都仏師の一人でした。金峯山寺には、康成が仏師となった薬師如来像も伝来しています。
吽形像は、翌年の延元4年に造り始められました。大仏師は康成、小仏師も康舜、仏師は幸禅・良圓・國誠で、大工は清原國弘他4名でした。これだけの巨像であったため、仏師だけではなく大工職たちも造仏に関わったのでしょう。
ところで、阿形像の「御衣木加持」が行なわれた延元3年という時代を考えてみましょう。実は、この仁王さんの造立がはじまる2年前の延元元年、後醍醐天皇が足利尊氏によって幽閉されていた京都を脱出されて吉野へ入られ、ここに南朝が開かれることになりました。そして、吉野の地から各地へ親王を派遣するなど様々な政策を実行され、延元4年8月には、義良親王(後村上天皇)に譲位され、同月18日に崩御(ほうぎょ)されることになります。短い間ではありましたが、後醍醐天皇が吉野に残された事績は多大なものでした。既にお気づきのように、仁王さんのうち阿形像は、後醍醐天皇が吉野山においでの時に造立が始まったのです。もしかすると、造立は後醍醐天皇の発願によっているのかもしれません。
これだけの巨像ですから多額の資金も必要になったはずです。両像の像内の墨書には、大施主の名前も記されています。大施主については、「多田(ただ)兵庫入道宗貞」と「高田兵庫入道宗貞」の二通りの読み方が伝えられています。
前者と読むと、興国(こうこく)3年(1342)頃から陸奥国など東北を中心に南朝方の有力武将として活躍した多田宗貞のことではないかと考えられます。京都の石清水八幡宮に立て籠もって、北朝方の軍勢と戦った南朝方の北畠顕信の軍勢に多田入道が居たことが、『太平記』巻20「八幡炎上事」に記されています。「八幡炎上事」は、延元3年8月の出来事なので、多田入道と多田兵庫入道宗貞が畿内で同時に活動していたとしても矛盾は生じないことになります。何れにしても、多田宗貞は南朝方の有力武将であったことがわかります。ちなみに、多田氏は摂津多田荘を本拠とする多田源氏と考えられています。
他方、高田兵庫入道宗貞と読むと、金峯山寺の寺領があった平田荘の在地領主高田氏が考えられます。平田荘は、大和国の葛下郡・高市郡・広瀬郡にまたがり、二千町歩を越える大荘園でした。この高田氏も仁王様の大施主に相応しい一族であったと考えられます。いずれの説が正しいのかについても、後考を待ちたいと思います。
これまでの仁王さんの護持
仁王さんは、堂内に安置される仏像とは異なり、門内とはいえ外気にさらされてきました。そのため、これまで幾度も修理が施されてきました。最も古い記録は、両像の髻に残された墨書で、室町時代の康正(こうしょう)2年(1456)に南都絵所の法眼(ほうげん)有吉によって行なわれた彩色の塗り直しです。両像は、現在下地が露わになっていますが、元々は彩色が施されていました。今回の保存修理でも阿形像の右手の部分などから造立当初の彩色の一部が発見されています。今回の保存修理では、彩色の復元はしませんが、両像前に立つと色鮮やかな御像のお姿が目に見えるようです。その後、昭和47年から2カ年をかけて、現地で保存修理がおこなわれました。
こうした長い長い旅路を経て、仁王さんは、はじめて吉野山からお移り頂いて、奈良の地で保存修理と、本来安置されるべき二王門の保存修理が完了するまでの間、奈良国立博物館で展示されることになりました。
吉野山以外でこの御像を拝する事ができるのは史上初めてのことで、この機会に修理成った御像を奈良国立博物館で観覧して頂きたいと思います。そして、二王門の保存修理が成った暁には、是非当山にご来山頂き、吉野山で金峯山寺を守護する尊容を拝して頂きたいと切に願うものです。
吉野山へお戻り頂いても、金峯山寺を守護する仁王さんの長い長い旅路は果てしなく続き、お寺の行く末と、これからどのような世の中になるのか見守って頂くことになります。宜しくお願いしますと申し上げて、稿を終えたいと思います。
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筆者紹介
池田淳(いけだきよし)
金峯山修験本宗総本山金峯山寺 寺史研究室室長兼文化財主任。大阪芸術大学・龍谷大学非常勤講師
最終更新日:2021/04/13
編集部から
※「二王門」と「仁王門」について
文化財としての指定名称は「二王門」で、金峯山寺、また一般的には「仁王門」と呼ばれています。また「金剛力士立像」が指定名称ですが、同様に「仁王さん」と言われています。今回はそれを踏まえてご執筆いただいています。
※2021年5月16日(日)、総本山金峯山寺管長五條良知猊下の講演「山伏の祈りと蔵王権現」が近鉄文化サロンで開催予定です。詳しくは、近鉄文化サロン阿倍野(電話/06-6625-1771)へお問い合わせください。※近鉄文化サロンで開催予定だった総本山金峯山寺管長五條良知猊下の講演「山伏の祈りと蔵王権現」は、大阪での緊急事態宣言発出に伴い順延となりました。現時点での順延日は2021年10月31日の予定です。
※奈良国立博物館「ならはくチャンネル」で、特別公開「金峯山寺仁王門 金剛力士立像動画」 Part1 搬入・展示編 Part2 解説編(解説:奈良国立博物館 美術室長 岩井共二さん)が公開中です。
※金峯山寺と奈良国立博物館の情報は、それぞれのホームページでご確認ください。