奈良、旅もくらしも

『月刊奈良』で壬申の乱の連載がはじまります

奈良県で60年続く月刊誌『月刊奈良』で、2022年1月号から生駒あさみが壬申の乱の連載を始めることになりました。タイトルは「壬申の乱を訊く」。
来年2022年は壬申の乱から1350年です。この節目(節目と言い切ります!)の年に、奈良県内外の壬申の乱ゆかり地に赴いて、地域の文化財に関わる方や、研究者の先などに壬申の乱についてお話を伺っていこうと思います。1回目の対談相手は当webメディアでも連載をしていただいてる、吉野歴史資料館の中東洋行さん。壬申の乱といえばまず吉野ですよね…。ということで、宮滝の川の岩の上で1時間半くらい対談してきました。対談といっても大体私が中東さんの話を「なるほどー!!」と聞いている形なのですが、壬申の乱の出発地である吉野を知るために、是非読んでいただきたいと思います。

「月刊奈良」1月号では対談内容を掲載しています。すべて書ききれませんでしたので、こちらで本誌には書ききれなかったこぼれ話を。

◆岩場の上で対談
私が赤い服を着ているのは壬申の乱で天武天皇が赤い色を掲げていた…ということで(笑)。11月に長時間岩の上に座って対談するのはちょっと寒かったですね!すみません!!!

◆宮滝も今よりもかなり水量が多かった?
中東「宮滝の川辺には丸くくり貫かれたポットホール(※)が残っているので、もしかすると宮滝に人が住み始めるより昔のことかもしれませんが、岩場の上まで水につかっていた時期があったはずです。飛鳥時代の頃の水量は分かりませんが、上流にダムがない分、今より水量は多かったと思います。岩場も見えていたはずです。当時の飛鳥の人の表現ですが、吉野川のことは「大河」と呼んでいたようです。ただ、琵琶湖のある近江の都と比べたら「大河」なのかな?とも思いますが、近江の景色とも全く違って見えたんでしょうね。」

◆史実に残らない地域の伝承
中東「吉野町には『日本書紀』に残らない地元の伝承も多く残っています。大海人皇子が吉野にきたときから大友皇子が、ミルメ、カグハナ、という、追手を出していたと伝わります。彼らは伝承によって、人間だったり、見る目の鷹、嗅ぐ鼻の犬だったりとバリエーションがあるんですが。途中、大海人皇子を見失ってしまったために、大友皇子がミルメを殺したり、地元の翁がカグハナを殺したりする話が残っています。歴史書には残らない地域の伝承は吉野町のHPにも掲載しています。」http://www.town.yoshino.nara.jp/about/legend.html

◆大海人皇子にあやかる人々
中東「後世には、義経などの英雄も吉野に来ていますね。そういうのもやはり大海人皇子、つまり弱い立場になった人が吉野で再起に成功した歴史にあやかろうとしたと見られたようです。南朝もそうですが、色々な時代で大海人皇子と吉野が引き合いに出されていくんです。そんな場所が奈良にあって、積み重なっていくのが面白いですよね。大海人皇子の成功にあやかろうとした人が、吉野を訪れて、それがまた次の人を呼ぶ。こうした出来事が歌舞伎や文楽のような作品になって…という感じですね。
こう考えると、吉野は物凄く特異な場所です。遡って、ヒーローというように語られる人物の1人目が聖徳太子で、その次が大海人皇子だと思うんですよ。だいぶ飛びますが、その次は義経。義経人気は今は下火かもしれませんけど。そしてその次が後醍醐天皇などの活躍する南朝になり、戦国時代になると伝説視される方が減りますが、この4人は今日までいわゆる英雄と語られて来ています。」

例えばこの「中岩の松」も南朝の長慶天皇にまつわる伝承が残っています。

◆歴史の語られ方
中東「『日本書紀』を編集させたのがそもそも壬申の乱の勝者、天武天皇、持統天皇なわけです。一方『藤氏家伝』には、鎌足が生きていたらこんなことにはならなかっただろうに皆が思った、と書かれていたり、漢詩集の『懐風藻』には「大友皇子は乱のせいで天命を全うできなかった」と書かれているんですね。その時代に生きている人たちの間でも、立場立場で見方や評価にばらつきがあったのでしょう。それが語り継がれる中で大友皇子が悪物、大海人皇子が正義、で、大友皇子が大海人皇子を殺そうとしたから壬申の乱が起こったんだという語られ方に変わっていきます。
それが江戸時代になり、水戸学が起こって、日本の歴史をもう一度見なおしましょう、となったときに大友皇子の評価が改められ、その考えが明治時代に引き継がれて「大友皇子は即位していたのでは」と、弘文天皇という諡号が送られることになりました。陵墓も定められています。吉野に大海人皇子の伝承があるように、大津のほうでは大友皇子の伝承も数多く残っていますね。生き延びて東国に逃げ延びたんだという話もあるんですよ」

本文は『月刊奈良』1月号で読んでくださいね!サイトからも購入できます。
https://www.gekkan-nara.jp/

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 吉野といえば吉野山を真っ先に思い浮かべる方も多いかもしれません。吉野山も大好きですが、実は私は山に行くより先に宮滝に行ってます。持統天皇が何度も通い詰めたこの場所に何があるのか知りたかったのです。しかし、私は持統天皇ではないので、行っただけで思いがわかるわけもなく。ただひたすら青くて美しい水の流れと、真っ白い巨石が並ぶ風景をみて、ここが古代の人たちもあこがれてきた場所…。と、吉野を詠んだ万葉歌に思いを馳せました。また持統天皇だけではなく、斉明天皇、元正天皇などの女性たちが訪れたことを妄想して浸っていました。情景を見て、浸るだけでもとても楽しいのです。
 宮滝にはじめて訪れてからほぼ20年経ちました。その間にここが宮のあった場所だとほぼ確定するような発見もありました。知っていくごとにどんどん、ますますわからなくなります。しかし新たにわかったことから、様々なパターンで古代に訪れた人たちの感情を想像して、何度も何度も楽しんでいます。こういうのが古代史を楽しむ醍醐味ですね。
 拙書『天皇になった皇女たち』の表紙も宮滝の持統天皇です。ここで何をして、どんな思いで来たのかはわからなくても、この場所が女帝たちにとって重要な場所だったのは間違いないと思っています。宮滝を重要視した理由として、壬申の乱は外せません。そんなわけで今年は壬申の乱のことを色々とお伝えしていきたいと思います。『月刊奈良』本誌自体も、とても読み応えがあります。皆様、ぜひご購読ください~。

中東さん、お忙しい中ご協力ありがとうございました!

写真:北尾篤史

※ポットホール
日本語で「甌穴」 デジタル大辞泉より引用
河床の岩盤にできる円筒形の穴。岩のくぼみや割れ目に小石が入り込み、回転して深く削られたもの。ポットホール。かめあな。

最終更新日:2021/12/31

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