奈良、旅もくらしも

奈良は歴史が生き続ける優しい場所―インタビュー:ホテル尾花 中野 聖子さん

 猿沢池に程近い「ホテル尾花(元:ホテルサンルート奈良)」の代表取締役社長を務め、なら燈花会やなら国際映画祭など、奈良の新たな風物詩となっているイベントにも深くかかわる中野聖子(さとこ)さん。「学びはじめると果てしない」という奈良の魅力はどんなところにあるのでしょうか。ホテル尾花の前身である映画館で暮らした少女時代や、「奈良ってなにもないね」と言われてショックを受けた学生時代、イベントに関わることになったきっかけなど、奈良での暮らしや日ごろの活動についてお聞きしました。

映画館「尾花劇場」で暮らした少女時代のこと

 子どもの頃、映画館に住んでいました。ここはもともと、大正時代に開館した「尾花劇場(尾花座)」という映画館だったんです。5歳になるまでは、建物の2階にあった映写室の隣の部屋で寝起きしていました。ズシンとお腹に響くような効果音や、英語のセリフが遠くに聞こえる環境が私の日常。映画を観ている大人たちの隙間をぬってかくれんぼをしたり、夏は館内の空調機に潜り込んで涼んだり、絶好の遊び場でもありました。ただ、映写室に入ることだけは固く禁じられていて、約束を破ったらひどく叱られたものです。

 上映前の試写をする際、大人に混じって鑑賞させてもらえる時は嬉しかったですね。鮮明に記憶に残っている試写は『スーパーマン』です。フィルム上映の時代ですので、新しい映画のフィルムが届くと父が国鉄(JR)奈良駅まで取りに行くんです。黄色いバイクに一緒に乗せてもらって、フィルム缶は荷台にくくりつけてあって、 私は父の前にのせてもらって帰りました。『ニュー・シネマ・パラダイス』のサルヴァトーレ少年みたいに。道中のワクワクする気持ちは、今も忘れられません。映画のポスターを貼る作業を眺めるのも好きでした。昔は大きな木製のパネルに直接糊を付けて、手作業で貼っていたんですよ。冬はお湯に溶いた糊をパネルに塗った瞬間、ふわ~っと湯気が上がるんです。それを見ながら「ああ、冬なんだな」と。

 お茶子さん(館内の案内や雑用を担当する女性)の時代からずっと勤めていたおばあさんに遊んでもらいながら、一緒にチケットのもぎりをしたこと、上映が終わった後に館内の掃除を手伝ったこと、売店のおばちゃんがいつも肩に青いインコを乗せていたこと…。今も鮮明に思い出せます。映画館の営みは、少女の頃の私の生活そのものだったんです。

奈良から離れてはじめて「奈良を知らない」と気づく

 昭和54年に映画館・尾花劇場は閉館することになり、その翌々年に「ホテルサンルート奈良」が開業しました。当時この界隈は旅館街で、ベッドがある洋式の宿泊施設は奈良市内にも数えるほどしかありませんでした。当時の社長だった父の言葉を調べると、「先人が受け継いだ奈良の文化を、世界の人々に紹介することに尽力したい」とあります。長く親しまれた映画館が閉館する寂しさはありつつ、50代にして新しいことにチャレンジすることへの希望が感じられます。新聞の取材もたくさん受けたようです。

 実は、この頃のことはあまりよく覚えていません。通っていた小学校の担任の先生曰く、「とにかく暗い顔をしていた」と。言葉にはできなかったけど、ずっと暮らしてきた映画館がなくなるのは子ども心に衝撃だったのだと思います。中学受験を控え、思春期ならではの反抗心も芽生えていたのかもしれません。

 中学から大学までは京都の学校に通いました。ホテルが開業して家中がお祭り騒ぎになっていたこともあり、映画館のことはすっかり忘れてしまっていました。ある時、私の家に来たクラスの友人に「奈良って、なんにもないねぇ」と言われたんです。ショックでした。でも、これは私にも非があります。京都市内からわざわざ2時間近くかけて奈良まで来てくれたのに、私は近所の奈良公園でさえまともに案内できなかったんです。奈良公園になぜ鹿がいるか、なんてその時まで考えたこともありませんでした。

 自分が暮らしている環境が当たり前すぎて、よその人に説明する能力が皆無だと初めて気づいたのはその時です。友達を楽しませることができなかったという悔しさが残りましたし、奈良に対するコンプレックスも芽生えました。そこから10年間は、京都人のフリをして過ごしました(笑)。

家業を継ぐために奈良を知る必要があった

 大学卒業後は一般企業に就職し、大阪で働いていました。家業のホテルのことは頭の片隅にはあるものの、継ぐということは全く考えていなかったですね。OLとして事務の仕事をし、時には接待要員として合コンや飲み会の場を賑やかしたりして、それなりに楽しく働いていました。でも、就職して3年経つころに「自分にしかできないことって何だろう」とふと考えたんです。家を継ぐことができるのは、私だけじゃないかと。父の誕生日を祝う食卓で「私、ホテルを継がせていただきます」と宣言しました。喜んでくれるかと思いきや、意外とクールな対応でちょっと肩透かしだったのですが…。

 意気揚々と戻ってきたまでは良かったのですが、ホテルのフロントに立って3日目で「しまった!帰ってくるんじゃなかった!」と激しく後悔しました。会社員としての立場がなくなり、休みなく働く毎日。社長の娘としてのプレッシャーもありました。何より、お客様に奈良のことをまったく説明できないのがもどかしくて。中学生の頃、友人たちに奈良を楽しんでもらえなかったことが思い出されました。お客様のほうがよっぽど詳しいので、最初の頃はいろいろなことを教えてもらっていたんです。

 バブル景気に沸いていた時代は、ビジネス客と奈良通の常連さんだけで十分客室が埋まっていたのですが、奈良に工場を置いていた会社が次々に撤退し、次第に不景気を感じるようになっていました。ホテル経営の視点で見ても、奈良の魅力をより深く理解し発信することで、観光のお客様を増やしてく必要があったのです。

 そこからは、ひたすら勉強です。ちょうどその頃、なら・ボランティアガイドの会(愛称:朱雀)を立ち上げる動きがあり、新聞に養成講座を開催するとの記事が掲載されていました。「これは自分にピッタリ!」と思って参加してみると、周りは仕事をリタイアされたシニア世代ばかり。30代の私は若手の部類だったこともあり、運営のお手伝いをいろいろとさせていただきました。

 研究者の方に講演を頼みに行く機会が多くなり、直接お話を伺うたびに奈良の奥深さを痛感しましたね。研究一筋で80代になってもなお現役の先生が「春日大社はようわからへん神社や」なんておっしゃるんです。例えば、春日大社のご祭神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は東の常陸国から神鹿に乗ってお越しになったとされていますが、なぜそうなったのかは今も結論が出せないのだとか。「本を何冊読んでも、第一線で研究していても、奈良はまだまだわからなことだらけなんだ」と思ったら、すごくワクワクしました。

最終更新日:2021/01/31

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