奈良、旅もくらしも

【連載】大和川がつなぐ 第3回  動く川船を考える」岡島永昌

文・タイトル絵/岡島永昌

川の流れに逆らう船


 江戸時代、大和川に就航していた剣先船(けんさきぶね)と魚梁船(やなぶね)が主に運んだのは、大坂から大和への肥料であった。大坂の仲買は「三商売」と言って、干鰯(ほしか)・油粕(あぶらかす)の肥料の他に、塩も大和に流通させていた。大坂から大和と一口に言っても、実際に船を動かすとなれば一口で済まない。なぜなら、大坂から大和へ行くには、川の流れに逆らって進まなければならないからである。いったい船はどのようにして川を遡ったのだろうか。

 この話題を出すと、よく言われるのが曳き船である。曳き船とは、船に綱をつけて岸から人力で引っ張り上げる方法で、京都府の保津川舟運ではそれが行われていた。亀岡市文化資料館の展示図録『川船―大堰川の舟運と船大工―』によれば、戦後しばらくまでは4人の船頭で川を下り、帰りは1人が船で舵を取って、残る3人が綱で川べりを曳いて上がったのだという。

 しかし、大和川では、剣先船・魚梁船ともに曳き船をしたような事実や伝承を聞いたこともなければ、曳き船のようなことを記した古文書・古記録を見たこともない。仮に曳き船をしていたならば、かなりの重労働であるから苦労話のひとつも残っていそうなものである(私が不勉強で知らないだけかもしれません。何か情報があればご教示ください)。まったく曳き船をしないことは考えにくいが、そうした伝承や記録がないということは、大和川では曳き船を主たる遡航方法としていなかったのだろう。では、曳き船でなければ何なのか。

 享和元年(1801)に出版された『河内名所図会(かわちめいしょずえ)』は、秋里籬島(あきさと・りとう)が著したもので、全6巻からなる。図会(ずえ)とは、ある種類の図や絵を集めたもののことを意味するから、河内国の名所を集めて図解したのが『河内名所図会』である。秋里は、河内以外にも大和や摂津、和泉、近江、都(京都)など各地の名所図会を手がけており、そこに集められた絵を見るだけでも興味は尽きない。名所図会の挿絵は、風景や風俗がとてもリアルで、大坂の浮世絵師・丹羽桃渓(にわ・とうけい)が描いた『河内名所図会』も例外ではない。

『河内名所図会』第4巻
大和川の築留あたりを描いた挿絵で、画面左下に亀の瀬方面に向かって遡航する剣先船が、帆を張った状態で描かれている(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)。

 さて、その『河内名所図会』第4巻に「大和川・築留」と書かれた挿絵がある。築留(つきどめ)とは、宝永元年(1704)に大和川が付け替えられた始点で、堤防を築いて旧大和川の流れを留めたところにあたる。絵の注記を見れば、なるほど川の左手に「かし原(柏原)」、右手に「道明寺」「石川」があり、画面の右奥に「玉手」「葛城」「二上嶽」の山々、それらの山々を縫うように流れる川先に「亀瀬越」がある。つまり、この挿絵は、大和川の築留あたりを、今風に言えば、柏原市役所の少し下流からドローンを飛ばして、上流の奈良方面を見た風景画なのである。

 この挿絵の左手前に注目してほしい。大和川に浮かぶ5艘の船が見える。これらの船は、大和川を亀の瀬に向かって遡航していること、船首が剣先のように尖っていること、それに、船に俵状の荷物がたくさん積まれていることからして、剣先船と見て間違いない。そして、その剣先船に帆が張られている。この挿絵に描かれるように、剣先船は帆で風を受けて川の下流から上流へ遡ったのである。

明治時代の木津川の船
京都の木津川舟運の写真で、縦に長い布を横に5枚つないだ帆を張っているのが見える(出典:京都府立山城郷土資料館展示図録『木津川の歴史と民俗』)。

 多くの川船は、三反帆、五反帆などと言って、幅1m足らずの布を3枚、5枚と間隔を空けて横につなぎ合わせ、帆にしていた。布と布の間を空けるのは、強すぎる風を逃すためである。昭和12年(1937)に刊行された『大和王寺文化史論』には、明治初年に魚梁船の船頭をしていた大川亀吉らの談話が記録されており、魚梁船は、剣先船よりやや小型で、筵(むしろ)9枚を張って帆にしたとある。おそらく3枚の筵をつないで一反の帆とした三反帆の構造をとっていたのではないかと想像される。『河内名所図会』ではそこまで細かく描写されていないが、剣先船も同じであっただろう。

 ちなみに、本連載のタイトル絵は、『河内名所図会』の挿絵「大和川・築留」の一部を再構成して着色したものである。

船が進むスピード


 このように船が川を遡った様子を復元すると、次によく言われるのが、風のないときはどうするのか、という疑問である。至極もっともな疑問である。しかし、立ち止まって考えてみたい。今、私たちは現代的な感覚のもと、無意識にエンジンでスクリューを回して進む船のスピードをイメージしていないだろうか。

 住吉大社社務所が発行していた『すみのえ』という雑誌に、平成2年(1990)から翌3年(1991)、通巻198号から202号にかけて、片山清氏による「大和川剣先舟と大和国百姓との運賃紛争百三十七年史」と題した史料紹介が掲載されている。そこで紹介されるもののうち、天保12年(1841)に大和国中の百姓の代表らが船方の者を相手取った争論の史料では、「大和川を付け替えるまでは大坂から亀の瀬まで1日で航行できたが、付け替え以後は4日、5日、天気が悪ければ10日もかかった」と記されている。

 これは、大和国の百姓がどれだけ迷惑をこうむっているのかを訴えた史料であるので、数値が誇張されている可能性があるが、それでも大和川が付け替えられて以後は、剣先船の航行範囲である大坂の月正島(大阪市大正区)から亀の瀬(大阪府と奈良県の府県境)まで1日で到着することはなかったと考えて良い。

 今、月正島付近から亀の瀬までの川筋を簡易に計測してみると約28kmある。この距離を4日、しかも24時間ずっと航行したわけではないだろうから、夜は休んで1日12時間の航行を4日で48時間かかったと仮定して時速を計算すると、なんと約0.6km。1時間かけても600mしか進まないのである。もちろん、まったくの無風であったり、雨が降って増水したりしても航行できなくなる。そうした気象条件が影響して、最大で10日かかったとするならば、1時間で平均約200mしか進まないことになる。私たちの想像よりもはるかに、はるかにゆっくり、いや、風待ちをしながら進んだり止まったりというべきか、川を遡ったのである。

 なお、同じく『すみのえ』に紹介される天明3年(1783)の史料には、大和川を付け替えて間もない正徳年中(1711〜1716)は亀の瀬まで2日だったのが、7日、8日から10日もかかるようになったと記されている。史料によって数値は一定しないが、その速度をイメージするには十分な情報である。

 一方、川の流れに逆らわない下りはどうだっただろうか。これを考えるのに非常に参考になるのが、明治18年(1885)のものと考えられる「広告」である。前半の文章部分では、運送量が減少している現状を改善するために昼夜の分かちなく航行するほか、人を乗せる船も始めたので利用してほしいと宣伝されており、後半部分にその時刻表と運賃表が掲げられている。

 時刻表の昼便によれば、奈良県の石見浜(三宅町)を朝6時に出発した船は、板屋ヶ瀬浜(大和郡山市)、川合浜(河合町)・御幸ヶ瀬浜(安堵町)、勢野浜(三郷町)、藤井浜(王寺町)、国分浜(柏原市)、堺大和橋浜(堺市)などに立ち寄りながら、大阪道頓堀川の大黒橋に到着するのは午後7時であった。途中で10分から20分の停泊時間を取ったりもしているが、実に13時間をかけて下ったのである。石見浜から大黒橋までの川筋は約45km。時速を計算すれば、約3.5kmのとてものんびりした船旅であった。なお、江戸時代は剣先船と魚梁船の2つに分かれていた大和川の川船も明治16年(1883)に亀の瀬が改良されて、1つの船で航行できるようになっていた。

大和川舟運の広告
明治18年(1885)の人乗船の開始とともに出された広告と考えられ、時刻表と運賃表が掲載されている(出典:『新訂王寺町史』本文編)。

 もう25年も前のことになるそうだが、「探偵!ナイトスクープ」でこれに関わる名作が放送された。斑鳩町の自宅から堺市の会社に出勤するのにバス、JR、南海電車と何度も乗り継いで大回りするよりも、直線を行く大和川を下った方が早いのではないかという依頼で、依頼者と探偵がエンジン付きのボートで実際に大和川を下った。結果、電車より早いどころか、朝に出発して会社に着いたのは、9時間50分後の夕方だったというオチがついた。エンジン付きのボートであっても、川の流れに沿う下りでも、それだけの時間がかかったのである。上るのに4日、5日とかかったというのも納得できる。

 こんなに時間がかかるものなら、川船は不便だったのではないかと感じてしまうがそうではない。牛馬では1頭につき1駄しか運べないのに対して、剣先船なら1艘につき16駄、およそ2トンの荷物を大量輸送できたのであり、重い荷物を運ぶのにこれほど便利なものはなかった。明治時代の「広告」に人を乗せることを始めたと宣伝されるように、江戸時代の剣先船・魚梁船は人を運ばなかった。江戸時代は、運送が追い付かないほど荷物が多くあったし、何より人は歩いた方が早い。

筆者紹介

おかじまえいしょう/奈良県王寺町生まれ。天理大学文学部歴史文化学科卒業。大阪市立大学大学院文学研究科日本史学専攻前期博士課程修了。現在、王寺町地域整備部地域交流課文化資源活用係係長・文化財学芸員。著書に『聖徳太子と愛犬雪丸のものがたり』ほか。

最終更新日:2021/11/21

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