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【連載】大和川がつなぐ 第4回  亀の瀬の景観を復元する」岡島永昌

文・タイトル絵/岡島永昌

亀の瀬の国境

 江戸時代の大和川舟運(しゅううん)である剣先船(けんさきぶね)と魚梁船(やなぶね)は、亀の瀬を境にして航行範囲が分かれていた。剣先船が亀の瀬より下流の大坂側、魚梁船が亀の瀬より上流の大和国側である。この2つの船が亀の瀬のどこでどのように分かれていたのかは、大和川の舟運を理解するうえでとても重要であるが、実はこれまでほとんど検討されてこなかった。今回からはこの問題に迫っていこう。まずは江戸時代の亀の瀬の景観を復元することから始める。

 そもそも「亀の瀬」とは大阪府と奈良県の府県境付近、大和川の北岸(右岸)の山々から南岸(左岸)にかけての地名である。昭和7年(1932)と同42年(1967)に「亀の瀬地すべり」と呼ばれる大規模な災害が発生し、今なお対策工事が続けられているところといえば、知っている人もあるだろう。とくに昭和7年(1932)の亀の瀬地すべりでは、大和川右岸の山塊がすべり動くとともに大和川の川床が隆起した。復旧工事では山・川の双方で土砂が除去され、川の流路が変更された部分もあり、景観が大きく変わってしまっているところもある。

 亀の瀬の地名は、川の中にある「亀岩」または「亀石」という亀に似た大きな岩に由来するといわれている。加えて、亀の瀬は生駒・金剛山地が縦走する地帯であるため、奈良盆地や大阪平野を流れる大和川に比べて岩石が多く、やや急流である。したがって、亀岩のある「瀬」の地形という意味で、「亀の瀬」と呼ばれるようになったと考えるのが妥当だろう。現在は「亀の瀬」と平仮名の「の」を入れて表記しているが、歴史的には「亀ノ瀬」と「の」をカタカナにしたり、または「亀瀬」と「の」を入れないこともあって、「かめがせ」あるいは「かめせ」と呼ばれることもあった。

 亀の瀬のあたりは、大和川を境にして左岸が奈良県王寺町藤井、右岸が大阪府柏原市峠であり、江戸時代はそれぞれ大和国葛下郡藤井村、河内国大県郡峠村であった。現在の府県境がそのまま大和国と河内国の国境であったと考えられ、藤井村が大和国の西端、峠村が河内国の東端であるから、東西の国境の位置は大和川左岸が亀岩のあるあたりの西方、右岸が亀岩から1.2kmほど川上の東方と川を挟んだ両岸で違っていた。なお、川の右岸・左岸とは、上流から下流に向かっての呼称である。

 この違いは大和川舟運における亀の瀬を理解するのに大事なポイントとなるので、仮に「左岸の国境」、「右岸の国境」と呼んで区別しておきたい。なお、亀の瀬は、狭義には亀岩がある左岸の国境あたりを指すが、藤井村を「亀瀬藤井村」ともいい、峠村で文字どおり峠になっているところを「亀瀬峠」といったので、広義には藤井村・峠村を含んだ範囲を指した。

現在の亀の瀬
下流から上流を見て撮影。川中にある大きな岩が亀岩で、沿岸の山々は生駒・金剛山地である。岩石が多くやや急流で、川を境に写真左手(右岸・北側)が大阪府柏原市峠(河内国)で、右手(左岸・南側)が奈良県王寺町藤井(大和国)である(写真:筆者撮影)。

亀の瀬に滝?

 『三郷町史』上巻(1976年刊)に、江戸時代の宝永7年(1710)に安村喜右衛門が作成した「乍恐奉願候口上之覚」(おそれながらねがいたてまつりそうろうこうじょうのおぼえ)が翻刻(ほんこく)されている。翻刻とは、くずし字で書かれた古文書(史料)を、内容そのままに活字に置き換えて示すことをいう。安村喜右衛門とは、史料に見える肩書きによれば「和州平群郡立野村ニ罷有候龍田大明神本宮之神人」、つまり大和国平群郡の立野村(三郷町)に罷り在る龍田本宮(龍田大社)の神人(じにん)である。神人とは、辞書によれば神社に奉仕する下級の神職のことをいうが、安村喜右衛門の場合は神職でも下級でもなく、龍田本宮の総元締といったところで、魚梁船の経営権を所有していた。この史料は、幕府代官の交代を契機に経営権を奪われる格好となっていた安村が、その権利を取り戻すために魚梁船と安村家の関わりをまとめ、幕府に願い出たものである。安村家では、当主が喜右衛門の名前を代々襲名していた。

 では、この宝永7年(1710)史料から亀の瀬の景観を考えていこう。なお、ここで引用する史料は、『三郷町史』上巻で翻刻に使用された古文書の写真版を改めて確認して補訂し、とくに必要な部分だけあげていることを断っておく。

一、大和川船之儀、百壱年以前慶長年中片桐市正様権現様江言上被成、上意を以大和・河内之国境より九町程川下、河州亀瀬之滝を御切落御普請被成、慶長拾五戌年和州ゟ摂州大坂迄始而船之通路仕候御事
(一つ、大和川の船のこと、101年以前の慶長年中〔1596~1615〕に片桐且元〔市正〕様が徳川家康〔権現〕様へ言上なされ、上意を得て大和・河内の国境から9町〔約981m〕ほど川下の河内国の亀の瀬の滝を切り落とす御普請〔工事〕をなされ、慶長15年〔1610〕の戌年に大和国から摂津国の大坂まで初めて船の通路を整えた。)

 これは、冒頭に「大和川船由緒書」とタイトルを付けてまとめられた3つの箇条の1つ目である。安村喜右衛門が作成したものであるから大和川の船とは魚梁船のことで、国境とは安村が在住する立野村のある大和川右岸の方を指している。これによれば、右岸の国境から約981m川下に、なんと滝があった。やや急流になっているとはいえ、今の亀の瀬には滝がないので意外に思うだろう。史料では、家康の許可を得た片桐且元によって滝が切り落とされ、大和川に船の通路が整えられたのだという。

 『新訂王寺町史』資料編(2000年刊)に、延宝7年(1679)の「覚」(おぼえ)が翻刻されている。ここでもやはり旗本片桐氏の家来が、大和・河内の境(左岸の国境)の亀の瀬に滝があり、慶長14年(1609)に片桐且元が滝口を開けるのに岩を切り抜いたと記している。

亀岩の首がない?

 宝永7年(1710)史料には、亀の瀬の景観を復元するうえで興味深い話がもう1つある。「大和川船由緒書」の3つ目の箇条を見よう。

其刻(慶長19年〔1614〕大坂冬の陣)権現様和州法隆寺ニ御宿、夫ゟ立野村迄御出陣被遊亀瀬越可被為成与被思召候得共、右亀瀬之亀岩ニ者首無之由、然者御出陣之節不吉ニ被思召候間、他之道有之候ハヽ御案内申上候様ニと、甲斐庄三平様を以右喜右衛門江被仰付候ニ付、立野村ゟ川之向、藤井村ゟ河州国分村迄俄ニ山道を繕、此道筋御案内申上候、
(慶長19年〔1614〕の大坂冬の陣のとき、家康〔権現〕様が大和国の法隆寺に宿し、それより立野村まで御出陣あそばされて亀の瀬越えをなされようと思し召されたけれども、その亀の瀬の亀岩には首がないとのことで、だから御出陣のときに不吉であると思し召されたので、他の道があるならば案内するようにと、甲斐庄三平様から安村喜右衛門へ仰せ付けられ、立野村より川の向こう、藤井村より河内国の国分村までにわかに山道を繕い、この道筋をご案内申し上げた。)

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、家康が法隆寺から亀の瀬越えで出陣しようとしたところ、亀岩に首がないのを嫌ったという話である。戦時に験を担ぐもっともらしい話に感じるが、『駿府政事録』(すんぷせいじろく)という江戸幕府の日記には、同年11月15日に家康が京都の二条城を発ち、木津・奈良を経て翌16日に法隆寺の阿弥陀院に一宿。さらに翌17日に摂津の住吉(大阪市)の陣に到着したことは記されているが、法隆寺から住吉に向かう経路までは記していない。家康が本当に亀の瀬を通り、亀岩に首がないことを嫌ったのなら、『駿府政事録』にも何らかの記述があるはずである。おそらくこの話は、安村喜右衛門が家康の命を受けて案内するほど特別な家筋の者であり、魚梁船の経営権を所有するにふさわしい存在であることを主張するための潤色であろう。

 龍田大社に所蔵される絵図である「和州平群郡立野龍田本宮」には、宝永7年(1710)史料に見られる亀の瀬の景観が描かれている。絵図の左手に「亀岩」が見え、その上流に「亀瀬ノタキ(滝)、慶長十四年切落」と注記され、亀岩の首がないかどうかまではわからないものの、「大坂御陣之節、河州道明寺迄通御道、慶長十九年山道出来」(大坂の陣のとき、河内国の道明寺まで通じた道、慶長19年〔1614〕に山道ができた)と家康が河内へ行くのに繕った山道まで描かれているのである。

「和州平群郡立野龍田本宮」の絵図の一部
川中に描かれる岩が「亀岩」で、その上流部分に「亀瀬ノタキ(滝)」、それは「慶長十四年切落」されたことが描かれている(出典:柏原市立歴史資料館展示図録『亀の瀬の歴史―大和・河内をつなぐ道―』2015年)。

 江戸幕府の公式な史書である『台徳院殿御実紀』(たいとくいんどのごじっき)巻31(通称『徳川実紀』〔とくがわじっき〕、国立公文書館所蔵)には、法隆寺に一宿したのち「大御所(家康)ハ関屋越して住吉まて御旗をすゝめらる」とある。どうやら家康は亀の瀬ではなく関屋(香芝市)を越えたようである。実は、亀岩の首がないのは片桐且元による滝の切り落とし工事が原因ともされる。次回は、このあたりのことから亀の瀬の景観をより実態に即して復元していく。


筆者紹介

おかじまえいしょう/奈良県王寺町生まれ。天理大学文学部歴史文化学科卒業。大阪市立大学大学院文学研究科日本史学専攻前期博士課程修了。現在、王寺町地域整備部地域交流課文化資源活用係係長・文化財学芸員。著書に『聖徳太子と愛犬雪丸のものがたり』ほか。

最終更新日:2022/05/27

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