奈良、旅もくらしも

【連載】「大和川がつなぐ 第5回  亀の瀬の銚子の口」岡島永昌

文・タイトル絵/岡島永昌

片桐且元の工事失敗

 大和川が奈良県と大阪府の境界付近を流れるあたりは「亀の瀬」と呼ばれ、江戸時代は大和国と河内国の国境であった。国境の位置は大和川の右岸と左岸で違い、右岸が大和国平郡群立野村(現在の三郷町)と河内国大県郡峠村(現在の柏原市)の境で、左岸はそこから1.2kmほど川を下った大和国葛下郡藤井村(現在の王寺町)と河内国安宿群郡国分村(現在の柏原市)が境であった。狭義に亀の瀬と呼ばれたのは、とりわけ左岸の国境付近である。

 江戸時代の初め、亀の瀬には滝があり、片桐且元がその切り落とし工事を行って慶長15年(1610)に船を通じさせたこと、それに、慶長19年(1614)の大坂冬の陣で法隆寺から亀の瀬越えをしようとした徳川家康が、亀岩に首がないのを嫌って別の道を案内させたことを第4回の連載で見た。根拠とした史料は、『三郷町史』上巻(1976年刊)に翻刻される宝永7年(1710)「乍恐奉願候口上之覚」(おそれながらねがいたてまつりそうろうこうじょうのおぼえ)である。ただし、この宝永7年(1710)史料は、当時、魚梁船の経営権が他者に移り、取り戻そうと画策していた安村喜右衛門が、自らの家こそがそれを所有するにふさわしいと幕府に願い出たものであることに注意を要する。なぜなら、自らの利害を主張するあまり、事実に脚色が加えられている可能性が否定できないからである。

 そこで今回は、天和3年(1683)の「若年寄稲葉石見守殿其外川々見分記録」(わかどしよりいなばいわみのかみどのそのほかかわかわけんぶんきろく)によって亀の瀬の滝について見ていくことにする。この天和3年(1683)史料は、幕府若年寄の稲葉石見守らが大和国へ川の検分にやってくるということで、奈良奉行所与力の玉井与左衛門定時らが事前に各地を下見し、奉行所に報告した情報などを玉井自身が記録したものである。玉井は他にも数多くの記録を残しており、それらは『庁中漫録』(ちょうちゅうまんろく)と題して全78巻に整えられ、本史料はその第59巻に収められた。奈良県立図書情報館で写真版を閲覧することができる。なお、以下に引用する部分は、『三郷町史』上巻にも翻刻されているが、ここでは写真版を改めて確認し、補訂していることを断っておく。

 さて、「若年寄稲葉石見守殿其外川々見分記録」によれば、天和3年(1683)3月10日、同じ与力の中条太郎右衛門とともに奈良奉行所を出立した玉井与左衛門は、11日に法隆寺から龍田を経て「立野本宮」(龍田大社)へ参詣した。そして、安村久弥と倅(せがれ)の権兵衛に亀の瀬の界隈を案内してもらい、久弥が話したことを次のように記録している。

龍田大社
江戸時代の龍田大社は、斑鳩町にある龍田神社の「龍田新宮」に対して、「龍田本宮」と呼ばれた。天和3年(1683)史料では、龍田本宮が大和国平群郡立野村に位置することから、「立野本宮」と記されていると考えられる(写真:筆写撮影)。

久弥支配の魚梁舟の儀相尋候処、是ハ片桐市正殿節より先祖喜右衛門に申付られ相勤よし、片桐殿より喜右衛門へ給候証文状有之候とてミセ申候、久弥物語に慶長十四酉年亀瀬の石とも何とそ堀すて、舟の往来能様にと市正殿自分の普請有之といへとも、石根ふかく右の意趣やみ申候、其節亀石の首をきらる、そのとき世に申ならハらしたるハ首のあとより血流たるよし人々かたり伝ふ、まことかいぶかし

<現代語訳>
〔安村〕久弥が支配する〔権利を所有して経営する〕魚梁船について〔玉井与左衛門が〕尋ねたところ、これは片桐市正〔且元〕殿のときから先祖の〔安村〕喜右衛門に申し付けられて勤めているということで、片桐殿より喜右衛門へ発給された証文状があると言って見せられた。久弥が話すには、慶長14年〔1609〕の酉年に亀の瀬の石を何とかして掘り捨てて、船の往来が良くなるようにと市正〔片桐且元〕殿による普請〔工事〕があったが、石根が深くてその意趣〔石を掘って船の往来を良くすること〕は止めた。そのとき亀石の首を切られた。世間で申し習わされているのは首の跡から血が流れていたということで、人々が語り伝えている。本当か疑わしい。

 玉井与左衛門が話をした久弥と名乗る人物は、この当時は魚梁船の経営権を所有していた安村家の当主で、安村喜右衛門忠安のことである。久弥は、片桐且元による亀の瀬の工事が慶長14年(1609)に行われたものの、石を掘り切ることができずに中止されたと言い、世間では且元の工事によって亀石の首が切られたと伝えられているとも言っている。

 第4回の連載で紹介した宝永7年(1710)史料では、「河州亀瀬之滝を御切落御普請被成、慶長拾五戌年和州ゟ摂州大坂迄始而船之通路仕候御事」(河内国の亀の瀬の滝を切り落とす普請〔工事〕をなされ、慶長15年〔1610〕の戌年に大和国から摂津国の大坂まで初めて船を通路させた。)と、あたかも片桐且元によって亀の瀬の滝が切り落とされたように記されていたが、この天和3年(1683)史料を踏まえて解釈してみると、なるほど滝を切り落とす工事をしたとしか書かれておらず、それが成功したかどうかまでは言及していない。そのあとに船を通じさせたとあるので、つい滝の切り落とし工事が成功したものと読んでしまう。実際は、且元による工事以後も亀の瀬の滝は存在していたのである。

玉井定時が記録した亀の瀬

 「若年寄稲葉石見守殿其外川々見分記録」の続きを見よう。久弥から話を聞いた玉井は、亀の瀬の石の様子を視察するため、倅の権兵衛の案内で大和川右岸の国境まで行き、そこから魚梁船を借り切って亀の瀬に向かった。そして、次のように記している。少し長くなるが引用しておく。

亀瀬滝といふ所ハ川中双方より紫色の岩石聳出水通細し、此岩石の間水流長六間、此滝のむき卯辰より戌亥へ流下る、岩石の所を銚子の口といふ、滝上口の幅四間半、中ニて幅四間、滝下の幅三間壱尺なり、此銚子の口より流下に岩石夥敷あり、惣して岩数四十八あるよし、あらまし書付置候
雲岩 長サ五十九間有  烏帽子岩  小亀岩  扇岩  蓮華岩  高岩  笛吹岩  仏岩  経盛岩  屏風岩  三津岩  除岩  からうと岩  よりかゝり岩  へつい岩  鞍か渕釜岩  かふち岩  大黒岩  弁才天岩
如此の類多し、岩石の躰みな流にしたかひてあり、又亀石より下の岩石ハ又亀石にむかいて流に逆てあり、亀石か岩石の内の第一の岩と見えて如此也
亀石長サ三間三尺、横弐間三尺、此石の頭ハ申酉に向、此亀石の裏に作礼而厺の文字あるよし、大峯山へ入山ふし順礼所廿八番あるよし、則此亀石廿八番目にあたり、これにて成就するとの事なり、滝の上口より亀石まて壱町三十六間三尺間あり

<現代語訳>
A亀の瀬の滝というところは、川の中に双方〔両岸〕から紫色の岩石がそびえ出て、水の通りが細い。この岩石の間の水の流れの長さ〔幅〕は6間〔約10.9m〕で、この滝の向きは卯辰〔東南東〕から戌亥〔西北〕へ流れ下っている。岩石のところを銚子の口という。滝の上の口の幅は4間半〔約8.2m〕、〔滝の〕中で幅4間〔約7.3m〕、滝の下の幅は3間1尺〔約5.8m〕である。Bこの銚子の口より下流に岩石がおびただしくあり、全部で岩数が48あるという。あらましを記しておく。〔以下、原文では岩の名を1行に2個ずつ書いて改行しているが、引用文では詰めて書いた。現代語訳では省略する。〕このような類〔たぐい〕が多い。岩石の様子はみんな流れに従うようにあり、また、亀石より下流の岩石は亀石に向かって流れに逆らうようにある。 亀石が岩石のなかの第一の岩のように見えている。C亀石の長さ3間3尺〔約6.4m〕、横〔幅〕2間3尺〔約4.5m〕。この〔亀〕石の頭は申酉〔西南西〕に向いており、この亀石の裏に「作礼而厺」〔原文は「サライニコ」とふりながを振る〕の文字があるという。大峯山へ入る山伏の巡礼所が28番あるということで、すなわち、この亀石が28番目に当たり、これで〔巡礼が〕成就するとのことである。滝の上の口から亀石まで1町36間3尺〔約175.5m〕の間がある。

 現代語訳に示したとおり、引用部分は大きく分けて、A亀の瀬の滝、B亀の瀬に数多くある奇岩、C亀石の3つの話題からなっている。

 Aからは、亀の瀬の滝は大和川の両岸から紫色の岩が張り出して、川幅が10.9mほどに細くなるところにあり、滝上の口から中程、滝下にかけて幅が8.2m、7.3m、5.8mと順に狭くなっていて、「銚子の口」と呼ばれること、東南東から西北に流れていることがわかり、かなり具体的である。銚子の口とは、口先がすぼまる滝の形状を酒器のお銚子に模した名称なのだろう。

 また、Cでは、亀石が長さ6.4m、横幅4.5mの大きさで、亀の頭に似る部分が西南西を向いているという。先に引用した部分では、片桐且元によって亀石の首が切られたという世間の伝えを、玉井与左衛門が「まことかいぶかし」と疑っていたが、それもそのはず本人が亀の頭の方角を現地で見聞きして記しているのであって、首は切られていない。おそらく世間が且元の工事失敗を揶揄して、そうした噂が生まれたのではないだろうか。

 さらに、玉井は「銚子の口」の滝口から亀石までが175.5mであることまで記録してくれている。現在、亀の瀬に滝がないのは、昭和7年(1932)の地すべりの際に、隆起した大和川の川床を削り取ったためであろうと推測しているが、玉井が記録してくれたおかげでその位置を復元することができる。すなわち、亀岩から175.5mの地点を簡易に計測してみると、地図にピンを立てた位置にあたる。同じく、現在の亀岩を簡易に計測すると長さ6.1m、横幅4.4mと史料に記録される6.4m、4.5mという数値と大差ない。どこを基準にして計測するのかで違ってくるものの、亀岩の頭も記録のとおり西南西を向いているといえるので、玉井が記録した数値は正しく、滝の復元位置も大きく間違っていないであろう。この位置なら滝が東南東から西北に向かって流れると記録されていることとも矛盾しない。滝があったところの川幅は10.9mであったというが、今は約25mある。やはり亀の瀬地すべりの復旧工事で地形が大きく変わったのだろう。

亀の瀬の滝の位置復元

 なお、Cで亀石が28番目の巡礼所にあたっていると記しているのは葛城二十八宿のことで、和歌山県の友ヶ島から和泉山脈、金剛山地の28か所に役行者が法華経を埋納した経塚を巡拝する葛城修験の結願の地であったことを示している。ここでは亀石に「作礼而厺」の文字が刻まれているという。川の中にあって実際に見に行くことができないため不明であるものの、亀岩に文字があるという話を今は聞かない。Bでは、亀の瀬に48の奇岩があるというが、今は残念ながら亀岩の他は名称をともなう岩がなく、雲岩がそのかたちから推測できるくらいである。Aで川の両岸からそびえ出る紫色の岩とあるのがそれである。

今も見られる雲
Bで「長サ五十九間有」と記されるように、約107.3mにわたって広がる岩であるという。今も新亀の瀬橋から左岸の上流側を見下ろすと、紫色を呈して「雲」という形容にふさわしい岩が広がっている。雲岩は「クモイシ」「紫雲石」などと亀の瀬を描いた絵図にも登場する(写真:筆写撮影)。

 次回からは、剣先船から魚梁船への荷継ぎがどこで、どのように行われていたのか。江戸時代、亀の瀬の滝が具体的にどの位置にあったのかが明らかになったことを踏まえて、大和川の舟運が剣先船と魚梁船で航行を分けた理由についても見ていきたい。


筆者紹介

おかじまえいしょう/奈良県王寺町生まれ。天理大学文学部歴史文化学科卒業。大阪市立大学大学院文学研究科日本史学専攻前期博士課程修了。現在、王寺町地域整備部地域交流課主幹兼文化資源活用係係長・文化財学芸員。著書に『思いつくまま、歴史の旅―王寺まち歩き100話―』ほか。

最終更新日:2023/04/26

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